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【特大号】16秒の南うねりは伝説的なフォードアーズ_ブイ計測値のおさらい_私の波乗りの歴史_第18編_昭和64年の長沼サーフボード_(4690文字)

こんにちは、

今日は特大号です。

どうぞよろしくお願いします。

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2ft at 16s S (185°)

2ft at 16s WNW (284°)

.

ふたつのメジャーなうねりがサンクレメンテ周辺にやってきている。

たったの2フィート(約60cm)であるが、

うねり間隔が16秒もあるので、

ローワーズならブレイクするときは、

セットで軽く8フィートはあった。

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じつはブイの計測値について、

トーランスからサーフしに来ていた

「うどん職人マサさん」に説明しようとしたが、

読んでもらった方が簡単だと思い、

「以前のブログに詳しく書きました」

とお伝えした。

ということで、

みなさんにもそのリンクを共有しております。

0.9ft @ 20s from SSW(193°)のシンジツ_「波乗りの科学」ブイ計測値編_ノースハワイの子供たちの遊び方_大好きな芋焼酎『海童』の広告出演中_(3202文字)

フォードアーズもこのうねり角度を好むのと、

0.29ftの干潮と重なったので、

ほとんどの波で200mは乗れるものとなった。

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先日もお伝えしたが、

マット・アーチボルドの伝説ボードB&Wをお借りしている私。

そして私の伝説シングルフィン70をブライアン・ミラーに貸した。

波もやはり伝説的に良く、

多くのサーファーがトレッスルズに行ってしまったので、

フォードアーズはほぼ無人。

仲間だけで乗り放題のウエイブプール状態となって、

ひさしぶりに『SURFED OUT』状態、

つまりオナカイッパイとなりました。

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途中、

ミラーが水中機材を取りにいき、

30分くらい撮ってくれ、

このダウンザライン作品を得た。

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波乗り後はとても空腹となり、

いつものハンセンズマーケットで

『ベジタリアン・サンドイッチ』の豪華昼食。

こうして波を見ながら食べる銘品のおいしいことといったら、

もう至上至福だ。

さて、連載企画の第18回目です。

最初から読みたい方は第1回であるこちらをご覧ください↓

私の波乗りの歴史_第1回_(2282文字)

前回、17編はこちらです。

コールボードの詳細_トレッスルズの行き方_80年前のサーフボード_私の波乗りの歴史_第17編_ロイ・ゴンザレス_(3388文字)

サンクレメンテでボクは、

マット・アーチボルドを見かけ、

そしてロックスター志望のドノバン、

メキシコにロードトリップに行って、

サーフ界の不良魂父ハービー・フレッチャーと出会い、

さらには、

サーフアート界の奇跡ロイ・ゴンザレスと親交が始まったことまで書いた。

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日本に戻って最初にしたことは、

狂おしいほどマジックボードだと感じた、

クリス・ビリーのボードに乗ることだった。

日本の波、

しかも鎌倉の弱い波でどうなるのかが知りたかった。

七里ヶ浜はずっとオンショアが続いていたようで、

まんまと腰くらいあり、そのバタバタ波でも、

その5’8″ 19-1/2″はピチピチとしていた。

やはりカリフォルニアと、

日本の波には相違はほとんどないと確信するに至る。

で、

思いついたのが、

このボードと同様なものを作ってもらうことだった。

そうすれば、

ほぼ永遠にこのフィーリングのボードに乗れるようになる。

(当時は、短く、幅広のショートボードはまだ一般的ではなかった)

私のシェイパーは長沼サーフボードの下重さんで、

最初に手に入れたボードが偶然にも下重さんのお師匠である長沼さんシェイプだった。

これは、東京都荒川区三ノ輪に源さん(10フィートコード主宰)という人がいて、

その源さんのテストライダーをしていた松田さんという人が、

長沼さんがシェイプしたボードを持っていて、

売ってくれることとなり、

それがボクが最初のボードとなった。

3万5000円だった。

そんな長沼さんつながりの不思議な縁があり、

さらにはD先輩の計らいもあり、

私は晴れて、

ディック・ブルーワー・ナガヌマの下重さんチームとして、

バリで作られたプラスティック製の黒い名刺50枚をいただくことになった。

そこには、

レインボーラメで私のフルネームが、

Mitsuhide Funaki と入っていて、

左上には、

TEST RIDER と斜めに入っていた。

今はテストライダーという単語は、

下手をすると笑われてしまうほどの死語だが、

当時はこのテストライダーというのが、

毎日波乗りをする者にとってはひとつの到達点だった。

なぜならサーフボードを無料で使用でき、

そしてカスタムで、

自分の好きなようにも作ってもらえるという夢のような話だった。

たいていのテストライダーは、

ありとあらゆるサーファーを想定して設定されていて、

そのジャンルは多岐に渡っていた。

例えば、

波があれば毎朝必ず入っている高校教師

とても美人。どんなサイズのボードでも見事に乗るエアロビの先生

大波になると、驚くほどすばらしい波乗りをするガイド業

不良だけど、波乗りはビッカビカだったフーテン(無職)

何をやって生きているかわからないが、

波乗りの渋さでは地元で一番の元プロサーファー

畳屋の裏、

片瀬3丁目8番地のサバリバを運営するイチくん

老舗パン屋の裏に住む宗教団体の摂政

子分をたくさん引き連れている若ボス

小波天才の内装屋親方(隠れてマセラッティを乗っている)

俳優志望のグレイトサーファー小学生

東北から上京したプロサーファー志望者

全日本では常に上位にいたおじさんロングボーダー

自分のブランドを創り、

さらには”TEST RIDER”とラミネート(デカール)を創った自称系

サーフショップの常連なので、

その常時割引を持って、自分がテストライダーだと勘違いしていたサラリーマン

.

このまま100人くらい書き出していけるのだが、

これでテストライダーという存在を理解していただけたと思う。

だが、その本質というか内容は、

「サーフボードの性能を確かめつつ、多くの人にそのメーカーの良さを知ってもらう」

そんな広報員兼開発担当者であったように思える。

そのテストライダーは、

メーカーによって待遇にばらつきがあったが、

1.たいていはボードを○本持っていてよろしい

2.欲しいだけ何本でも持っていてもいい

3.または1か2の混合(曖昧なだけ)

ということで、

これは新しいボードが欲しければ、

必要がなくなったボードと交換してもらうというものだった。

ちなみにボクはこの当時8本持つことができた。

(開始時は2本。勝手に持っている本数を増やしていたという経緯も)

そうやってくれていた下重さんに、

サンクレメンテからのマジックボードをコピーしてもらおうと思ったのは、

ボクにとっては当然の試みで、

良いアイディアであったと今でも思える。

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当時ボクが住んでいたのは、

鎌倉市腰越3丁目。

このマクドナルド(現、一風堂)の真裏の、

和田荘という下宿風の一軒家の奧に原付を保管してもらっていて、

そのビニールシートを引っ張り出して、

さらには挟まったように、

隣家との隙間に収まっていたヤマハ・サリアンを引き出した。

バッテリーはほぼパワーを失っていたが、

キック8発目くらいでかかって、

それにはヤマハすごいぞ、と驚いた。

そのシートにボードのフィンを挟むようにして置き、

そのまままたがると、

ちょうどエントリーノーズあたりが、

バイクのテイルエンドに付けられた荷台と当たった。

その上に自分のバッグをクッション代わりにして荷台ゴムでくくり、

2ストロークの白い煙を吐きながら、

クリス・ビリーのサーフボードとヤマハサリアンは、

「焼き鳥きよい」の前を通って江ノ電通りに出て、

庄虎を曲がり、かまくらベーカリー前の川沿いを走り、

さらにはラッシュ、コスミックエネルギーのお店の前を通り、

モノレール道路を上り、

ロジャースの横を抜けて寺分の交差点まで抜けると、

ナガヌマファクトリーが近づいてきた。

(長沼さんの工場、またはディック・ブルーワーと呼ばれていた)

ボードを工場の壁に横向きに置き、

外階段を登ってシェイプルームを確認すると、

威勢の良いプレーナーの音がしていたので、

もうひとつの目的であった

「ほとんど読めていなかった日本のサーフ雑誌を見る」

ということに没頭することにし、

工場の休憩室にいることにした。

まずはローカル崇拝主義誌、

磯部さんのサーフィンワールド誌の台風特集号、

岡田修平さんと空志海児さんのコラムを読み終えたとき、

「おう、フナキか」

そう言って下重さんが休憩室に入ってきた。

「カリフォルニアどうだったよ?

オレンジジュースいっぱい飲んだか?」

「それがどうにもすごいことになっていました

マットアーチボルドにハービーフレッチャー

メキシコにドノバン

ローワーズでクリスチャン・フレッチャーのエアが炸裂してまして

ウェーブ・ウオリアーズそのものですあちらは」

そうやって、

句読点をどこにもはさまずに一気に言ったが、

元々私の言うことは何も聞いていなかったようで、

「お前の言っていることはわかんねえよ」

そう言ってテレビを付けると、国会中継が映った。

(そのままチャンネルはNHKに固定されていた)

「あのですね」

「何だよ?」

「サンクレメンテですごいボードを手に入れたんですよ。

波のどこに行っても魚みたいに走り続けます。見ていただけますか?」

「ん?サンクレメンテか?

アメリカかぶれのボードかよ。

お前明日は金髪にしてくるんじゃねえのか?」

(当時の先輩サーファーは、

バリとハワイには好意を示したが、

なぜかカリフォルニアには、反発する人が多かった)

「はい、かなりかぶれちゃってます。

傾舞奇者なのかもしれません」

そう言って自虐すると、

「持ってこい」

そう言われたので、

これはチャンスだと飛ぶように階段を下りて、

その幅広ファイブエイトを捧げるように差し出すと、

下重さんはチラリと嫌悪するように見て、

さらにはボードに触れもせずに3秒後には、

「うんうん、わかった」と言う。

(え、それだけですか?)

と思ったけど、

「もっと見てください。

これには重大な秘密が隠されているはずです」

「こんなの一瞬見ればわかる。

なぜなら俺はシェイプの天才だからな」

「そうですか。。。」

「あのな、

もう1本シェイプしたら横浜に行かなくてはならないので、

お前と話している時間はないんだ」

そう言って、

下重さんはシェイプマスクを付け始めた。

(きっと、こういうことが嫌いな人なんだろう。

コピーしたら、日本のサーフボード界ではアケボノになるのに….)

そうやって肩を落としていると、

下重さんはドアを出る前に、そのマスクを横にずらし、

「そのかぶれた金髪野郎のボード、2、3日置いておけ」

そう言いながらドアを閉めた。

「はい!ありがとうございます!!」

ボクは大きな声で、

その閉まったドアに向かって叫んでいた。

そのままNHKを消して、

サーフィンワールド誌を手繰っていると、

次に抱井さんとオガマさんがやってきて、

「おー、フナキくん、ハウアーユー?これはなんだね?」

と言いながら、

まるで宇宙からやってきた物体のごとく、

そのファイブエイトをおふたりで研究し始めた。

あげくの果てには、

オガマさん自作の、

NASAと同じテクノロジーを使っている(冗談ですよ)

というロッカー計測器初期型を持ち出して、

細かなロッカー数値を取っている。

この人たちはすごいと思っていたが、

それから30年近く経っても、

みなさんはいまだ同様にシェイパーで、

私も同じように波乗りを続けているのだから、

波乗りの魔力というか、

磁力というのはすごいものがあると思う。

とにかく、

当時はこうして各地で海外から、

特にハワイとカリフォルニアのプレミアムシェイパーの研究がされていたようだ。

日本のシェイパーの詳細で正確な技術とも相まって、

さらにはヨシノリ・ウエダさんがジェリー・ロペスに気に入られたこともあって、

ジャパニーズ・シェイパーブームがやってきて、

ボクのサーフィン史のはじまり部分である1980年代は華やいでいるようだった。

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19に続きます。