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naki's blog

【実験的文学日】サーフ系の羅生門=『四枚扉』_(1743文字)

今日は読書日で、

『エルマーのぼうけん』(福音館書店)

『羅生門』(新潮文庫)

そんな古典を読んだ。

幼少時に好きだったエルマーの奥付を見て驚いたのが、

初版が1948年とあって、

それはすでに68年も前に出版されていたものだった。

『羅生門』にいたっては、1915年(大正4年)とあったので、

100年以上も前の作品だと知った。

いつかここに

「文学ではなく、音楽のように文楽と表記すれば良いのだろうが、

すでに使用されていたので仕方なく学にしたのだろう」

もし波楽だったら?_すばらしきビームスジャパンさん_(1709文字)

そんなことを書いたが、

やはりサーフ文学というのがあったらどんなに楽しいことか、

そんなことを思って、

この101年も前に出版された『羅生門』をベースに

波に乗る文章を書いてみた。

連休中の息抜きだと思って読んでいただけたら幸いです。

それでは今日も良い日となりますように。

201609_sano_alex_0585

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四枚扉

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一人の波乗人が、四枚扉の小屋《フォードア》の前で波を待っていた。

広い海の上には、この男のほかに誰もいない。

ただ、塗の剥げた扉の前に古くさい板《ミッドレングス》に、

割と大きめの舵《フィン》を一枚付いたボードが転がっていた。

四枚扉が、

鰻捻《ウナクネ》聖地である聖斧振《サンオノフレ》にある以上は、

この男のほかにも、波遊びをする浜女笠《はまめがさ》や河童男が、もう二三人はありそうなものである。

それが、この男のほかには誰もいない。

何故かと云うと、この二三年、米国には、

地震とか辻風《つじかぜ》とか火事とか饑饉とか云う災《わざわい》がつづいて起った。

そこでカリフォルニアのさびれ方は一通りではない。

旧記によると、教会の装飾物を打砕いて、

その丹《に》がついたり、金銀の箔《はく》がついたりした木を、

路ばたにつみ重ねて、薪《たきぎ》の料《しろ》に売っていたと云う事である。

米国中がその始末であるから、

四枚扉の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。

するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸《こり》が棲《す》む。

妖怪《グッドサーファー》が棲み、波に乗ることに耽《ふけ》っていた。

とうとうしまいには、行き先のない波乗人は、

この小屋の前で野宿すると云う習慣さえ出来た。

そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、

この小屋の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。

その代りまた大鳥《ペリカン》がどこからか、たくさん集って来た。

昼間見ると、その大鳥が何羽となく波に乗るように飛びまわっている。

ことに四枚扉の小屋、その上の空が、

夕焼けであかくなる時には、それは美術品であるかのようにはっきり見えた。

大鳥は、勿論、小屋の前に来る最上級の波を、滑走《グライド》しに来るのである。

——もっとも今日は、刻限《こくげん》が遅いせいか、一羽も見えない。

ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた小屋の壁に貼られた

Live Alohaの文字が妙にかなしい。

波乗人は四枚扉の小屋の、

北側の壁が見えるか見えないかくらいの場所に山立て《やまだて》し、

逆光の燦めきで見えづらくなった水平線に目を凝らし、

日焼けですっかりと色落ちした枯草《カーキ》色の水着の尻を据えて、

板際《レイル》の感触を気にしながら、ぼんやりと海が動くのを眺めていた。

作者はさっき、「波乗人が波を待っていた」と書いた。

しかし、波乗人は波が来ても、格別どうしようと云う当てはない。

今日の空模様も少からず、この波乗人の Sentimentalisme に影響した。

申《さる》の刻《こく》下《さが》りから離岸《パドルアウト》していたはずだが、いまだに上るけしきがない。

そこで、波乗人は、何をおいても差当り明日《あす》の暮しをどうにかしようとして

——云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、

さっきから四枚扉の小屋の前に来る波を、乗るともなく見ていたのである。

波は、聖斧振をつつんで、遠くから、音も立てずにやってくる。

夕闇は次第に空を低くして、雲が海面に散らした暖色を纏《まと》わせていった。

(いつかに続きます)