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naki's blog

都内でいろいろ_【再録】コードネーム「セブンティーン、セブンティーン」の怪物波を撮ること_(5003字)

都内では人に会う用やイベントがあって、

六本木

銀座

有楽町

品川

目黒

渋谷

下北沢

新宿

新木場

と動いた。

普段は田舎が好きで、

割とのんびりしているのだが、

たまにこうして都会に来てみると、

モダンというか、

ちょっぴりエッジィな視点やアイディアが出る。

 

それしても都会はすごい。

こうして岡本太郎さんの時計塔とか、

車もスーパーカーだらけ。

そんな中、

レトロ=retrospective(回顧)の極みというか、

その時代で生きているかのようなトロちゃんこと、

トロピカル松村さんが現れた。

彼はBlue誌の編集者で、

業界内でもやたらと気が合うひとりであり、

ホイチョイプロダクションの『見栄講座』を読みなさいと言えば、

翌日には手に入れ、

他誌(NALU誌)に書いた

エントロピー(アレックス・ノストとジョエル・チューダー)を絶賛してくれたり、

浜をサンダルで歩くのはハダシとしてご法度と言えば、

すぐにそのようにするウナクネ系の文化人であります。

私から見ると、

トロちゃんは1979年代、

つまりヒッピーが衰退して、

ディスコや環境主義と個人主義が誕生した時代の新しい世代のサーフスタイルを愛し、

その中で生きているようです。

この時代は、

アフロヘア、ヒゲ、短いボードと共にプロフェッショナルサーフィンも始まりました。

1960年代が、

「フリー・ラブ・スタイル」であったことへの反抗からか、

反骨心のある、パワフルなサーフィンが好まれていきました。

そのポストフリーラブ、

つまりフリーサーフィンへの反動から提唱されたサーフスタイルが、

‘70年代の特徴だろうか。

より合理的で機能主義的となった近代サーフィンに近いものがこの時代に芽生えた。

そのときの高い装飾性、過剰性などの回復を目指しつつ、

時代のほぼ全てに憧れているのです。

とはトロちゃんの弁。

自分のスタイルの背景を知り、

それを貫くすばらしい若者であります。

Blue誌の打ち合わせをしながら最新号をいただいた。

詳細は後日。

電車で移動しているとき、

ガリガリ君スイカ味のドア広告を見た。

秀逸なるデザインなのでここに。

その後、下北沢に行き。

そこではエスプレッソマシンについて、

その泡の味覚のまるさについてしばし語りあった後、

北海道余市のことだったり、メキシカンレストラン、

そして先日10周年を迎えたumi cafeのことに話がおよび、

さらにはちょうど完売の連絡を受けたNORTH HAWAIIブックのこととなった。

完売=絶版

一般誌ならともかく、

私たちのような規模だと、

最初に初版をプリントして終わることがほとんどなので、

ビームスさんや蔦屋さんの書棚に入っているので、

もう終了だということを知った。

で、話はその中にあった

“コードネーム「セブンティーン、セブンティーン」”のこととなり、

出版から7年経って今もこうして話題に上ることが多く、

つい先日も他の人にもこの話をされた。

なので、

ここにそのコードネーム「セブンティーン、セブンティーン」のコラム版をおいて、

今日を終わります。

Have a great day!!

暑いので、海に入りたいですね!

.

コードネーム「セブンティーン、セブンティーン」の怪物波を撮ること

.

一番ブイは昨夜17フィート@17秒に達した。

これは大きくて強い波が、

北西海岸に押し寄せてくるということ意味していた。

うねりの角度は325°と北西。

夜明け前からイナリーズに行くと、

すでに到達した大うねりは水平線をたわませ、

「ズドン!」

と咆哮を轟かせながら、

見た目よりも少し遅れた地響きと低音を送ってくる。

これは日本の北、

アリューシャン海域で猛烈に発達した低気圧からの爆風によるうねりが、

ここノースハワイ、つまり5,000km彼方まで届いた威風堂々の波群だ。

ブレイクする瞬間に波の腹が目に残り、

その残像を脳に送っていると、

跳躍するような波の突先が、

ギラリと、夜明けの暖色の縁を鈍く光らせながら落ちてくる。

それは雪崩のようでもあり、または怪物の終焉のようにも映った。

ハイウエイを運転している間にも

「セブンティーン、セブンティーン」

というブイ・レポートの発音が残り、

「なんとかなるさ」

という楽観と、

「波の下で水を飲んで沈んでしまうのか」

という弱い意思を交錯させながら愛車サビタは北西に進んでいった。

浜に着いてみると、美しい、

ほのかな暖色視界にやや落ち着きを取り戻していたが、

沖から次々とやってくる波は、「怪物」と呼ぶにふさわしい高さと速さ、

そして重量感ある響きを持って威光を示していた。

まだ夜明け前なので誰も見えず、

遠くで釣り師が竿を振っているだけだった。

「行くのか?」

自問する。

「行かないこともできる」

という選択肢を残しながら俺はウエットスーツを手にした。

「何を得るのか」

または、

「何を失うのか」

ハワイの冬波に対峙するというのは、

多かれ少なかれこうした問いかけに迫られることとなる。

「今年たっぷりと大波に巻かれていること」

「健康であること」

という経験と自信の二つの理由を胸に抱いて、

カメラを持ち、生暖かい砂浜を上流に歩き、

沖に向かうカレントを見つけたところで、

カメラからのリーシュを腕にしっかりとし、足ヒレのベルトをきつく締めて、

「お願いします」

という祈りだけを口の中で発して泳ぎ出た。

泳ぎ始めると、いつものように激流が俺を下流に流す。

それに半分逆らい、

半分利用しながら前から来る泡の距離だけを確認しながら足ヒレを蹴っていく。

波乗りとは違い、サーフボードのような浮力体、

つまり頼れるものはなく、

この重たいカメラハウジングのグリップの硬さを感じながら、

大量の泡が弾ける音だけが俺を満たしていく。

泡波が来た。

山となった泡のかたまりは、

前方の大気をこちらに寄せてくるように迫ってくる。

ある程度来たところで、カメラ、

次に頭、最後に足を入れてゆっくりと潜っていく。

海中に入ると、無音に感じ、重力が変わり、苦しいような、

けど心地良いような、

そんな海の中で手を伸ばし、

そして足を伸ばして海底まで泳いでいく。

伸ばしていた左手が砂底に触れ、

そのまま平べったくなっていると、海が動き、泡が過ぎていく。

泡が過ぎると流れは岸側に動き、

過ぎ去ると今度は少しだけ底に押しつけられる。

それからまたゆっくりと海面に上がっていく。

海面は明るく、そこまで行けば息が吸えるのだ。

じきに浮上する。

もうすぐだ。

手が先に大気を掴み、次に顔を出して、ゆっくりと息を吸い込む。

波はまた来ている。

「(まだ岸のそばなのに)今からこれでは沖に出られるのか?」

と自身に問いかけるが、それはまだ考えることではない、

と海面にその不安を散らすようにし、

次の波にもさきほどと同じように潜る。

さっきよりも息が続くようだ。

こうして俺は海になじむように、

そして原始に戻るように、美しい波、新しい波を求めて、

流されながら誰もいない夜明け前の海に独り泳いでいる。

ある程度泳いだところで波が切れたようで、水平線が見えた。

「今だ」

と体をまっすぐにして、

カメラの抵抗を少なくするように一直線に沖に向かっていく。

ある程度行ったところで、海底は深くなり、水の色が変わった。

“ここでいいだろう”

とカメラのスイッチを入れて、セッティングを確かめる。

ISO500
絞り優先F7.1
マニュアルフォーカス
スイッチ類異常なし、
水漏れも大丈夫。

そんないつものことをしながらはやる気持ちを落ち着かせていく。

怪物が来る前に全てを整えておけばいい。

リーシュの結び目をさらに固くし、足ヒレのベルトを締める。

東の空から太陽が昇ってきた。

夜明けは山々の縁を滲ませるように、そして燃えるように姿を見せてきた。

神々しいので、カメラを横に浮かばせて手を合わせる。

うねりの影が見えた。

怪物はとうとうやってきたようだ。

胸が締め付けられて、咳き込むような気持ちになるが、

それをこらえ、陸を見て自分の位置を確認し、

さらにその怪物との距離を確かめ、

「前に行くのか、それとも岸側に寄るのか」

というポジショニングを調整していく。

奴が来た。

それは速く、美しい波で、あっという間に俺を通り過ぎていった。

波腹を通り抜ける際にぶれるような、

列車が体の上を通り抜けていったような感覚とシャッターを切った感覚が残っていた。

次の怪物が来ている。

その大きな斜面にカメラを合わせようとしたが、

波はそこまで切り立たずに俺を過ぎていった。

次の波も同様で、セットが行ったのを見定めてから

カメラのプレビューボタンを押して画像の確認をする。

「怪物の切り立ち」は捉えていたが、

これが円くなるのを撮るには、

もう2、3モーメントは波の中にいなくてはならず、

たった今俺を過ぎて、

感じた波の圧力を思いだして身震いが起きた。

岸を見ると、

さらに流されていて、無駄だと思いながらも上流方面に泳ぐ。

すこしあって、またうねりの影が見えた。

先ほどより大きい、と感じ、もう一度うねりを凝視すると、

それはあっという間に近くまでやってきていて、

どうやら俺は岸側にいすぎたようだ。

“喰らってしまう”

ということを覚悟し、息を呑みながらも努めて冷静を保つ。

波は俺よりも20mほど沖で切り立ち、

たわみ、そして切っ先をこちら側にゆっくりと落としてきた。

実際には一瞬なんだろうが、

こんなときはたいていスローモーションに映る。

怪物は果てる寸前に、

俺を道連れにしようとしているようにも感じた。

断末魔の雄叫びに似た破裂音が世界の全てを轟かした。

息を吸い込みながらここまで撮り、一気に飛びこむように潜った。

深く深く、懸命に沈んでいった。

この怪物が上で破裂したようで、

「ドン!」

という爆発の、重低音が海を、そして体を震わせた。

深い蒼い海で目を開けていたのだが、

その怪物は白い泡へと姿を変え、一瞬で俺を包んだ。

まだ余裕があると思っていたので、

不意を突かれた形だが、観念してそのまま波の中に吸われていく。

ただ、

「やられる」

と感じた瞬間に右手のカメラは両モモと腹で抱えるようにした。

これをしないと巻かれているときにリーシュがヨーヨーのようになり、

自分のカメラで頭を打ち付けてしまい、

気絶、溺死ということになってしまう。

ここまでやってから俺は全てを閉じた。

何回転したのだろう、

いったい何m引きずられたのだろうか?

そんなことを薄く感じながら、

眠りから醒めたような意識で状況を捉えていった。

やわらいだ圧力が、波から外れたことを教えてくれていた。

目を開け、体をほどき、

明るくなっている方向、つまり海面を目指していく。

息はとうに続かなくなっているのだが、

喉を戻すようにして、

また海面に上がれることだけを信じて上昇していく。

文字通り「息を飲んで」いた。

海面付近で、底へと引き込む流れに遭遇し、

全く進まなくなったが、

ーー明るめのーー泡の薄いところに少し移動すると、

海面に上がることができ、

水圧から解放された頭と肩が軽くなった。

焦らずに左手の甲と掌で、

泡を押しやって、その大気のようでそうでない、

という中性帯を押しやって泡のない空気を即座に確保して、

息を大きく吸った。

吸いながら沖を見ると、さらにもう一本怪物が来ていた。

イナリーズで波を撮るときは強弱の差こそあるが、

こんなことになる。

そうやって大事な作品を手に入れていくのだ。

「波に乗る」

ということから、

「波を撮る」

ということも愛するようになった俺は今日も、

そしてきっと明日も波を撮りに行く。

それぞれの世界があって、

まだ諦観も達観もやってきていないけど、

進む方向は間違っていないはずだ。

『海で泳ぐ』というのはフィジカルなことで、

泳いだあとは精神的に何かがやってくる。

爽快感が主体の波乗りとは違う気持ちとなる。

「前と後、そして左右を合わせて、
飛んでくるリップを避けながら波の内側に入り込む」

というのは、広い海の、波の芯を探すようで、

それでいて、波乗りで培った経験や技術が役に立ち、

波の中を冒険し、味わい、

一瞬だけ拡がる美しい視界を焼き付けている。

◎◎