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naki's blog

【naki’sコラム】vol.63 私が波乗りを始めた頃_(8008文字)

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ずっと、永遠のテーマである「なぜ波に乗るのか?」。

そのことを考えていた。

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健康になるから?

いや、そうだけど答えは違うと思う。

かっこいいから?

全く違う。

日常生活と全く違うことをしたい。

そうは思える。

危険そうで安全だから。

その通りかもしれない。

フィジーで怪我したのを最後に10年間、無傷だし。

 

そんな質問と答えをいくら並べても答えは出ないだろう。

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私は飽きっぽい子どもだった。

文章が好きで、小説家になりたくて、

母に連れられて有名な小説家先生の家に訪ねると、

「それはすばらしいことじゃ」

「で、先生、どうすればこの子は小説家になれるのでしょうか?」母

「うーん、君はまだ小学生だからいろいろなことに興味を持って、

勉学に励み、両親の言うことを聞き、友だちを大切にし、スポーツも大事だ」

「先生、それでは具体的にどうすれば良いのでしょうか?」

「今日から文章を、10年間書き続けなさい。されば夢はかなうだろう」

「文章、何の文章でしょうか?」

「ま、日記でいいじゃろ。日記を毎日書きなさい。

なんでも良いから10年間毎日書いて、それで私のところに持ってきなさい」

「わかりました。ありがとうございました」

という母と先生のやりとりがあって、

私は小説でなく、日記を書くことになった。

初日は、

「こんなすばらしい先生のところに行って、だから今日からここに10年間書きます」

という決意系のものだった。

2日目は谷川俊太郎さん訳のピーナッツ(チャーリーブラウン&スヌーピー)について書き、

しかし、3日目には「今日は何もありません」。

そんな日記帳を19年前に母が亡くなった片付けをしていたら見つけた。

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それから空手を始めて、

それは夢中になって、本気で稽古を毎日したけど、

ある日を境に道場に行かなくなってしまった。

それからバイク時代がやってきた。

スクーターから始まり、

次にはギア付きの50cc(MBX)。

ヤマハのRZ50が欲しかったのだが、

なぜホンダにしたのはいまだにわからない。

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そして中型免許を取って、ホンダのVFに。

ここでもヤマハのRZ350が欲しかったのだが、

”14500回転は軽く回る”というV型エンジンに惹かれてしまった。

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ブーツにグローブはもちろん、

分厚い革ツナギを着て、

最も頑丈だとされるヘルメットをかぶり、

クリッピングポイントへの入り方、高速コーナーでのかぶせ方、

タイヤへの摩擦の最良なる角度等々をいつも考え、峠道を本気で走っていた。

バイクに乗っていると、風を感じ、非日常な速度があり、

全てが後ろに消し飛んでいってしまうような感覚があった。

その時だけは自分の人生が消し飛んでも良いと感じていた。

ただ、母だけはそれが心配だったようで、

私がバイクに夢中になればなるほど、彼女の心配は強くなっていた。

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そんなとき、アルバイト先の旅行で千葉の白子(蓮沼だったのかも)海岸に行った。

その海の家にあったのは貸ブギーボード。

友だち3人でそれぞれそれを借り、沖を目指すことになった。

その日は今思うと、肩〜頭くらいのわりと強いオンショア。

しかも小雨のコンディション。

友だち二人はすぐに脱落して、

私は銚子の海で育ったということもあり、

泳ぎには自信があったので、

ずっとずっと沖を目指して腕を回し続けた。

でも、どこまで行っても波は途切れることなく、

白波が沖からやってくる。

1時間は漕いだだろうか。

海の家が遠くに見えたところで意を決して波に乗った。

それが偶然良いセットだったようで、

(もしかしたらだが、直感的に良い波を選んだのだと思う)

それはものすごい落下をして、吹き飛ばされるように波に乗った。

ただファーストセクションを過ぎると、波はみるみる弱くなっていく。

長く乗りたい、岸まで乗っていきたいので、

左右を見ると右側の波が強く見えたので、

足を入れて抵抗をかけて、じわじわと失速しながらも右に行く。

セカンドセクションの衝撃があって、

また同じようにすぐに弱くなっていく波。

また右側に行けば波は生きている。

今度はバイクのように体ごと傾けると、

失速しないでボードは曲がっていった。

「ウオー!」

感動するほどのスリルと体感Gを受けたまま、

その次のセクションに飛び込むと、

もみくちゃになって、うれしさのあまりボードを離してしまった。

浮かびあがると、

足が付かないほど深かったので、

岸に向かって泳ぐと、もう岸のそばで、波の先に砂浜があった。

そこからさらにのんびり泳いでボードを取って、

今度は岸から近いところからさっきの要領で波に乗り、

バイクのように何度も体を傾けてターンのマネをしていた。

「波乗りはものすごくおもしろい!」

そう実感した瞬間だった。

でも、あまりにも夢中になってしまい、

「(迎えの)バスでみんな待っているぞ」

先ほどの友だちが雨の中やってきて、

しぶしぶ上がると、手足全てがふやけていた。

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で、それからずっと波乗りのことを考えていた。

バイクよりもスリルがあって、

しかも転んでも吹き飛ばされても無傷であるから、

もしかすると安全で、

それならば母を心配させることはないだろう。

そう自分に言い聞かせていた。

時代は、駅のソバの丸井百貨店でサーフボードが売っていて、

ライトニングボルトの分厚い10cmはあるレインボーソールのサンダル。

タオル地の鼻緒が付いているのがサーファー風だった。

テクノカットよりサーファーカット。

モードよりもアロハシャツにジーンズ。

レイヤーカットにボウルカット。

ヒゲにオキシドールでブリーチした髪。

知り合いの人がサーファーだったので、

安くボードを売ってもらえないかと聞いてみると、

「あのさ、お前だから言うけど、波に乗れるボードはないんだよ」

そういう返事が返ってきた。

どうしてそうなのかを聞いてみると、

「ナイショだからな」

と小声で教えてくれたのは、

彼は、「陸サーファーだけど、そうは見せない」

ということに徹底的にこだわっているということだった。

ボードにセックスワックスのストロベリーもきちんと塗るし、

晴れたらどこにだって日焼けしに行くし、

サーフ用語は全て知っているというが、

今思うと、

「マメマスダのレイバック」とか、

「カカイのローラーコースター」

という津田明さんの著書からの受け売りだった。

ハワイには行ったことがないが、

だいたいの波の場所は頭に入っているという。

「国内でサーフィンするなら奄美がいい」

そんなことも言っていたことを思いだした。

(その頃の私は、奄美は新島の向こうにあると思っていた)

さらに自慢のサーフボードを見せてもらった。

そこに付けられて丸まった極太リーシュは、

パイプライン製の黄色い半透明のもので、

それについても聞くと、

「あのな、これが一番ビッグウエーバーに見えるんだよ」

続けて、

「サンセットビーチで乗っても切れないのはこのタイプだけさ」

というようなことを会話にはさむと、

彼のカノジョたちはイチコロらしかった。

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トロイのハイネック、新島、ハマトラ、ニュートラ、50円ゼビウス。

花札の任天堂からファミコンが発売され、マリオ、ドンキーコング。

YMO、松田聖子、小泉今日子、PL一年生の桑田真澄、

千代の富士、サザンオールスターズ、矢沢永吉、沢田研二、ET。

時代は陸サーファーの存在が終わりを告げようとしていた。

私はまだ白子海の家以来、サーフィンができないでいた。

バイト先に、

本物のグッドサーファーとされていたKさんがいて、

彼は丸井の4階で、

「ケンブラッドショウのシングルフィンを買ったから、

来週の店休日(火曜日だった)に千葉に行こうぜ。

湘南の方がいいんだけど、

大波用だから波が大きくないと走らないらしいんだ」

ボクはKさんと一緒に千葉に行くことになった。

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前の日はうれしくて当然まともに眠れずに、

こんなことを交互に考えていた。

「サーフボードが海の家にあって、貸してくれるかもしれない」

「もしかしたらKさんがそのニューボードを貸してくれるかも」

そして、

「本物の波乗りを間近で見るチャンスだ」

そうなると、夜は夜ではなくなっていた。

で、約束の時間がやってきて、

駅まで行くと、

Kさんの車(シルビアだった)が時間通りにやってきて、

その助手席に乗って千葉に向かった。

千葉インターで京葉道路を降り、

(当時はここが終点だった)

茂原経由で到着すると、駐車場の下に海が拡がり、

右側に堤防があって、今思うとそこは太東岬。

真夏の平日。

無風快晴の朝。

サーファーはまばらで、波も膝くらい。

Kさんがニューボードにガリガリとワックスを塗っていく。

その甘いココナッツの香りにクラクラし、

サーファーの良い香りというのはここから来ているのか、

と変に感心していた。

そして砂浜でKさんを見学することに。

けれど、あれあれ。

きっとKさんは初心者だったのでしょう。

上手くというか、1本も波を滑ることができません。

たまに波に乗れそうになって、

「おおー!」

と注目するのですが、

でも波の上で飛び上がるように立ち上がって、

その次の瞬間は波の後ろにドボンと沈没していました。

他のサーファーも似たようなものでしたが、

多くの人は波に乗っていたから、

Kさんの乗れなさの具合というのはボクにもわかったものです。

「立ち上がろうとしないで、腹ばいで滑ればいいのに」

「滑ってから立ち上がればいいのに」

直感的なアドバイスが浮かぶが、

グッドサーファーだとされているKさんには、

口が裂けてもそんなことは言えません。

もしかしたら周りはみんなプロで、

一般サーファーはKさんだけかもしれませんし。

そうやって1時間くらい見ていたら、

Kさんが上がって、こちらに向かってきました。

「お疲れさまです」

「おう、これ乗っていいぞ!」

「え!いいんですか?」

「これケンブラッドショーだから買ったのに、

全然だめなボードだ。あの店員にだまされた」

「そうなんですね」

「俺は車で寝てるからよ。上がったら起こしてくれ」

「はい!お借りします!」

そういうことになって、

突然ブラッドショウ・ボードに乗れることになった。

願いは叶うものである。

そのボードのサイズは聞かなかったが、

記憶からたどると、

2m以下、きっと6フィート(約180cm)前後。

幅は手で抱えられたので、

21インチくらいのシングルフィン。

平日、しかも太東岬の膝波だったから、

初心者天国だったことだろう。

そのままボードを抱えて沖へと向かった。

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(そのケンブラッドショーのシングルフィン)

沖に向かうと、

海は、前回の白子よりも倍くらい冷たくなっていた。

波のピーク部では水深が胸くらいあって、

膝くらいの高さしかないはずだが、

波が来ると、その高さは背丈以上に感じられる。

けれど、その背丈波を何本かやりすごすと、

前回は一度も見えなかった水平線が見え、

ある程度まで沖に出ると波は崩れることもなく平穏そのものだった。

遠くに見える積乱雲。

前回と違って静かな海。

岸側に移動して、

あのときの要領で腕を回して波に乗ると、

柔らかくて短いブギーボードと違って、それは硬くて長いサーフボード、

あれあれと簡単に波に乗ることができた。

でもテイクオフはドーン、と波を滑り降りる例のスタイルで、

腹ばいのままずっとずっと滑っていった。

前回と違うのは、

波が平均的にずっと続いていることだった。

泡も消えないで左右一直線にずっと残っている。

そのまま泡波を滑っていって、

10mくらい行ったところで立ち上がってみると、

おお!

立ててしまった…。

そのままヨロコビながら滑っていくと、

ボードが底に乗り上げてしまい終了となった。

やった!

立てたこともそうだが、

こんなにも安定した平均泡波があるということがうれしくて、

楽しくて、おもしろくて、感動し、走るように沖に戻っていく。

うれしかったのか、

あせったのかはわかならいが、

沖に出るのがもどかしくなって、

途中で泡に背を向けてそこから「押し乗り」をした。

これは立ったままで波のタイミングに合わせて掴んだボードを押し出すと、

それは簡単に波に乗れることがわかった。

波に押されて安定してから立ち上がる。

岸で見学していたおかげでコツはなんとなくわかっていた。

ーー何本も乗っていくうちにーー

膝を傾けると、右に曲がっていくことを知った。

私はレギュラーフッターなので、

太東岬のほとんどの波がライト、

つまり右に乗っていく波だっただろうから、

乗っていける距離がこれで格段に伸びていった。

泡波バンザイ。

サーフィン最高!

もう俺は一人前のサーファーだ。

あの知り合いの人みたいにはったりではなく、

ちゃんと波に乗っているんだ。

そんな想いが体を満たした。

そして、この時代のサーフィンは、

やたらとかっこよく、

だけどとても危険なものとされていて、

さらには未知なもので、憧れが強いものであった。

「波乗りの島」

著者の片岡義男さんは、

さぞかしすごいサーファーだと国民全員が信じていた。

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今と違って情報も少なく、

サーフィン話は雑誌からの受け売りがほとんど。

でもここにあるサーフィンは、

雑誌に載っていたハワイやカリフォルニアの波とは違うけど、

おだやかで、

バッティングセンターの球みたいに均一で、

とても簡単に乗れることがわかった。

うれしくて波に乗り、また乗っていると、

日焼けで目が痛くなってきた。

視界に星が飛ぶようにパチパチするので、

必要のないときはなるべく目を閉じていた。

そんなとき、

ひとりのサーファーが見たこともないスピードで、

波の、泡でない壁を滑っていた。

赤いボードに乗ったその人は波の上に上がって、

また下に降りてはどんどん向こうに滑っていく。

「あれをやりたい!」

そう思い、沖に出て、

その人がどうやっているのかを研究することにした。

沖で見る彼はやたらとかっこよかった。

だまって沖を見つめて、

サーフボードの先に手を置いていた。

スプリングスーツのロゴ、サーフボードの赤、

彼の仕草や身につけているもの全てに崇拝するような気持ちで崇めていた。

それはまた、人間ではないものを見ているようであった。

彼が波を待つ。

どうやらボードの上に座っている。

その真似をしてみると、何かが決定的に違うようで、

そんなことは絶対に不可能なほど不安定で、

グラリとし、すぐに沈没してしまうボク。

そしてパドリング、

その人は静かに腕を回すだけで、ものすごい速度で海面を動いていく。

自分のとは根本的に違うことがわかり、

「これは真似してみてもどうにもならない」

そう悟ってしまった。

仕方がないので、また足の付くところに戻って、

それまでと同様に押し乗りを繰り返していた。

そこにその赤いサーファーが乗ってきて、

ボクの真横でクルリンと回った。

それが360(スリーシックスティ)だということは今はわかるけど、

そんなことが波の上で、

しかも自分が乗っているこの小さな波の上でできることに感動し、

サーフィン世界はどこまでもどこまでも広いということを知った。

その後、小さくてパーフェクトな波が来て、

1秒間だけ波の壁を滑ることができ、

猛烈に感動して、さらにさらにと乗っていたら、

Kさんが浜にやってきて大声でボクを呼んでいる。

「よーし、Kさんにこのスバラシ乗りをお見せしよう」

とばかりに波に乗って、その日一番のターンをしようとした途端、

膝を曲げすぎたようで、体が傾きすぎて耐えられずにドップンと落ちてしまった。

「ぐやしい。でもうれしい」

立てたのをKさんは見てくれたであろうから、

うれしさ満開で近づいて行くと、

「帰るぞ」

とそれだけ言って、背中を向けてしまった。

何かに怒っている。

多分、ずっとKさんのボードでやっていたからだろう。

車に戻ると、

すでにKさんはエンジンをかけていたので、

慌てて帰り支度をするボク。

ボードを彼の青いキルティングのケースに入れて、

それをルーフキャリアに固定して、

さっと着替えて助手席に乗り込むと、

冷えた体にエアコンがやたらと寒く、ブルブルと震えてしまった。

窓だけが暖かいので、

そこに手を付けて息を止めるようにしていたらすかいらーくに着いた。

距離的に茂原のあたりだったのだろうか。

そこは千葉方面に向かって街道沿い左側にあった。

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(今でもガストとしてあるのだろうか)

気づいたらお腹がぺこぺこで、朝から何も食べていなかった。

Kさんはお腹が空いていて不機嫌だったのだろうか。

車外に出ると、その暑さがうれしかった。

店内に入るとまた寒さが戻ってきた。

次の波乗りのときはジャケットを持ってこよう。

そんなことを何度も考えていた。

ハンバーグ定食を注文し、クリームソーダも頼んだ。

料理が来るまでの間、

あの最高だった波乗りの話をKさんとしたいのだが、

彼はなかなか口を開かない。

まだ怒っているようだ。

でも波乗りがこんなにおもしろいとは思わなかった。

これからは波乗り命である。

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(写真はイメージで、当時のものではありません)

バイクはもう本気で乗らずに、これからは波乗りを真剣にやろう。

まずはボードを手に入れて、

バイクには積めないから車の免許も取らないと。

バイトの時間増やせるかな。

そういえばサーフボードはケースに入れたら電車にも載せられるって、

新聞に書いてあったな。

Kさんはもうボクと海に行かない気がする。

そんなことを考えていた。

大盛ご飯をお代わりして、

最高の食事が終わって車に戻ると、

少しだけ機嫌が良くなったKさんが

「そうだ、サザンの新しいLPあるんだぞ」

とカセットを入れた。

そこから流れてきたのが「マチルダBABY」で、

真向に立つ悪魔の要塞
見張る男はでかいのなんの
君が捕われの身なんて たとえ夢にも思えない I say

It’s just a fantasy, oh oh
夢ならはよさめて
It’s just a sympathy, oh oh
Hey little girl, I say, “C’mon”, little girl
逢いたい気持ちが So much more
言葉では言えないほどに
体がふるえてやまぬ マチルダ・ベイビー No, no, no…

という奇っ怪な歌詞と、

リズミカルなメロディがその時の自分の気持ちに妙にマッチして、

今も忘れられない楽曲になった。

「夏のサーフィン」を思い出すときは、

いつもこの曲なのであります。

それから色々あって、

結局次にサーフィンできるのは18歳になってからなんだけど、

それは次回となります。

そしてサーフィンを始めるまでのあいだ、

勉強しようと思い立ち、ボクはこんな本を買った。

「サーフィング・ザ・マインドコントロール」

サーフィング・ザ・マインド・コントロール

ここにはサーフィンの教えとなる全てのことが書いてあって、

後に知り合うことになる抱井保徳さんやデビル西岡さん、

マメ増田さん、添田さんに加えて、

いつか大好きになる奄美大島の写真が誌面を飾っていた。

「サーフィングはテクニックだけではない」

という思想がみっしり散りばめられていた大切な教本だった。

1億人がサーフィンと口語表記だった時代に、

きちんとSURFINGと記していたことに本物を感じた。

すごいよ津田さん。(著者、編者)

この本をずっと大切にしていたんだけど、

引っ越しに次ぐ引っ越しでどこかに行ってしまった。

古書屋を回ったときに探しても皆無。

インターネットでなんでも見つかるこの時代にも関わらず、

どこにも見つからず、今は図書館に数冊あるだけのようです。

誰かお持ちでしたら今度、

フィッシュフライやグリーンルームのときに見せてください。

(後に湘南の先輩、Mさんからプレゼントしていただきました)

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いつかみなさんの佳き時代のことを聞かせてください。

あの時にはもう二度と戻れないし、

同じことは起きない大切な日でした。

どうぞすばらしき週末をお迎えください。

今日もNAKISURFにお越しくださってありがとうございました!

当時大好きだったバカボンを置いておきます。

天才バカボン