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naki's blog

【naki’sコラム】vol.41 アニミズムの波乗道

*アニミズム(animism)は、生物、無機物を問わない全てのものに霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。

我々日本人にとって、アニミズムは『神道』そのもの。
古来より巨岩や巨木を「神」と崇めているので、それは理解しやすいと思います。
で、私たちサーファーにとっての「神」とはなんだろうか?と考えてみた。
ある人はケリー・スレーター、またはサーフボードと答えるだろうし、そのサーフボードを削り出すシェイパーも神であろう。
または、沖に出るのは不可能とも思える海で、超サーファーが波に乗るのを目撃すれば、その人をそう思うのかもしれない。
そんな色々な神を通過し、時を経て、俺がアニミズムを感じるのは海、そして波だと信じ始めてきた。

波

この美しい斜面が止まることなく迫ってくる奇跡。
波は、刻々とその姿を変えてくる。
そう、まるで生き物のようにね。
波は神だと書いたが、この位置にいればその神に巻かれることになるだろう。
いや「包まれる」と表現した方がいいのかもしれない。
包まれるときには祈ることが多いのだが、それぞれの瞬間で深さ、重さを変える。
重要なのは「いつも祈っている」ということで、危険なときにだけ祈っていてもそれらの神は振り向いてくれないようだ。
ただ、仏教では「祈りはおこなわない」とされている。
その代わりに「願掛け」ということを行っている。
願掛けと祈りの違いは何だろうか?世界的に信者が多いキリスト教。
その「祈り」の項目を見ると「賛美、感謝、嘆願、執成、静聴、悔改」とあって、「波を讃え、ありがたく思う気持ちを持って願い、実行しながらも静粛にし悔いを改めよ」と読んでみた。
で、Dセンパイ(三浦さん)が最近よく言う「悔い改めよ!」というフレーズを思い出した。
センパイの言葉は、ときに意味がなく、ときには「七年殺し」のようにじわじわと効いてくるものがあり、これは後者に当てはまるようだ。
さて、九十九神(つくもがみ)というのが日本古来の神道にあり、「多種多様な万物を神とする」ということからその意味を引っ張ってくると、この仮説である「波は、神に値する」ということが正しいという自信を深めた。
森羅万象の結晶である波、それらをこうして擬神観を持ち、1/500秒という速さで止められた写真を撮り、それをモニター画面で見てみますと、じつに不思議なことがわかるのです。

波

上の写真は波の先端部分を撮ったものですが、数々の神々しい光をたずさえている。
こういった煌めきは宝石の輝きを帯びているようで、見る者のこころを打つ。

波

俺は「道」という言葉が好きで、2007年に「波乗道」という言葉が閃き、今もなお頻繁に使用している。
野球道、メール道、運転道、飲食道と自身の行為に当てはめてみると、よくなじみ、そして背筋にビシリと芯が通るようで、信念を持って事を行える魔法の言葉であると感じている。

閑話。
今から1297年前の日本には『古事記』(和銅5年、712年)という最古の書があり、その上巻(かみつまき)には、「イザナギ、イザナミが生まれ、二神は天から地上世界に降り、結婚して結ばれて大八島国を産み、そして山の神、海の神とさまざまな神を産んだ。」とあった。
ここで日本には海の神が誕生し、同時に九十九神である波が各地にやってきたことが伝説として記されています。
日本古来の神道では、神霊は荒魂(あらみたま)と、和魂(にきみたま)が存在するとされていて、これは神の霊魂が持つ二面性の名のことだとされている。
古来から人々は、荒魂を和魂に変えるために、供物を神に捧げ、祭りや儀式を行ってきた。
荒魂は新しい事象や物体を生み出すエネルギーを持っている魂で、同音異義語である新魂(あらみたま)に転化するとされている。
古代中国に似ている思想があり、それは「陰陽(いんよう)」。
陰陽では森羅万象、宇宙に存在するありとあらゆる事象を陰と陽の二つに分類している。
互いに対立する二つの気であり、万物の生成消滅を説明している。
話は逸れまくっているが、日本国憲法第20条に「信教の自由」とあるが、最近の宗教は「カルト教」や「ネットワーク教」などの印象で、「もしかしたら悪いもの」としての印象が出現している。
ここ、ノースハワイで周りの人々を見ていると、キリスト教徒、つまりクリスチャンがほとんどだが、その印象は「わりと平和」であるということが感じられる。
事実、ここでサーフボードはもちろん、ビーチサンダルも盗られたことはない。
つまりは「コソ泥」が少ないのだ。
ただ、ハワイで泥棒がやたらいるのがオアフ島で、それがどのくらいなのかと言いますと、「車内で、見えるところにサングラスを置いて離れると、窓ガラスが割られ盗まれてしまう」とものすごいことになっている。
事実俺もオアフの空港カウンターで、目の前に置いた携帯電話が盗まれた経験がある。
「これはオアフ島の宗教が入り乱れているからだ」という記事をホノルル新聞のコラムで読んだ。
日本に行くと、サンダルはもちろん、ウエット、あげくの果てはサーフボードまで盗まれてしまう。
先日友人が辻堂第2駐車場で、車上荒らしというか、車ごと盗まれてしまった。
海から戻ると、駐車した場所に車がないので「ヤラレタ…」となったわけだが、仕方がないので被害届を出しに海岸入り口にある交番に行き、被害届を書いて、友人を呼んでウエットのまま家(マンション)に戻ると、今度は家が開けられて、時計等が盗まれていたという。
つまり犯人は車を盗み、その財布内にある運転免許証から現住所を知り、車内から見つけた鍵で堂々と空き巣を実行したと推察される。
(若い犯人は、防犯カメラの下を堂々と駐車料金を払って退場し、マンションのエレベーターにも同人が映っていたそうだ)
「ヤバイよね~、湘南も遂にオアフ化してきたよ」とは被害にあった友人談だが、こうして最近多発している犯罪は「信仰の薄さ」から引き起こされている気がしてならない。
なぜなら多くの宗教には「やったらやられる」または「陰陽(良いことと悪いことのバランス)」「良い得点と悪い得点」ということがあり、盗みや暴力などは、かなり悪い得点をもらうことになるだろう。
そんなことをしたら自分に跳ね返ってくるということを教えられていないのかもしれない。
この章をまとめますと、「悪いことをしていると、波に対して祈れない」ということだと思う。
とすれば善人は強い波の下で沈静でき、悪人は自身の悪事を波の下で思い出し、「混乱した心理状態」となるのだろうか。
ここで「悔い改めよ」という前出した言葉がまた磁気を帯びてくる。
波運もその通りで、「与えよ、すれば自らも与えられる」という原則を無視し、「俺オレおれ」というセッションを多く見て、そして通過してきた。
ただ、無視せざるを得ない混雑状況というのがある。
昨今の波乗り事情だと、「いつも行くブレイクが混んでいるので、少しでもテイクオフが早いボードを探しています」というご要望がお客さまから多くあり、
そのテイクオフが早いボードは何とかなるのだが、ピーク付近を一直線に並び、
大人数で「我こそが~」とテイクオフしていることを想像すると、乾いた風が胸を通りすぎていく。
この「混雑したブレイク」の横には、「誰もいないブレイク」「または空いているブレイク」があることを知っている。
この違いは波情報による「マル」か「サンカク」の違いということだ。
さらにはこのマルの下にあるサンカクの記号は「波乗り禁止、不可能」という意味に取られているようである。
事実、先月に北東風の千葉に行ったときは、千葉アジト付近の波は、
携帯情報では「サンカク」で、勝浦方面がマル、混雑となっていた。
結局、俺たちは少しオンショアであるが、アジトの前に4人で向かい、そこにはすばらしい無人波があちこちでブレイクしていた。
これがサンカク評価の波なのか!と驚き、ヨロコビ、平和で広々としたすばらしいセッションとなったのです。
後日、同様なるコンディションがあり、風が合っている勝浦方面ではものすごい混雑で、九十九里エリアはほぼ無人。
その違いを知り、少し驚きにも似た気持ちとなったことを思い出した。
何が言いたいのかと申しますと、波情報の評価が何であろうとも、「他人の評価に揺るがない自身の持つ目」があれば、空いているところでサーフすることができることを知ったのです。

これはいつか「逆真会発足」の項に書いたので割愛しますが、
http://www.nakisurf.com/blog/naki/archives/1835
そんな逆転の発想で、豊かで楽しいサーフデイをお過ごしください。

さらにさらに話は逸れていっているのですが、「波は神というアニミズム」ということに戻すと、
↓この波は荒々しいリップを持った複頭龍のようなお姿が見える。
波

 

この波さまには、ものすごいパワーで壁に吸い込まれそうになり、「ひどい目に遭いませんように」と祈ったことを今も覚えている。
(こういう波は美しいが、その力も甚大で、それ故に波=神と感じ、これを書いているのだとここで再確認している)

↓こんな波もありました。
波

観音菩薩か、はたまた不動明王のお姿の様相だが、果たしてこの波さまは優しさなのか怒りなのか。
それがどちらになるのかはこの波を受けた人が感じるのだと思う。

最後に今回の大トリ作品を。
ーー紅白で言うところの北島三郎さんの「まつり」をここに。↓
波

 

波の奥、バレル部分を凝視すると、この波深くに「何か」が写っているように見える。
特にこの「波神論」を書いている最中にあっては、それは阿弥陀如来なのかも?と、極楽浄土からの説法が聞こえてくるようだ。
調べてみると、如来の意は「真理に目覚めた者」とあり、「なるほどなあ」と例によってインスタントに悟り、さらにはこの波からの成仏を求め、これからも途切れずに修行を積んでいこうと決意した。

この行為を波乗道師風の*ボーディ・サットヴァ [bodhisattva] (*ボーディ・サットヴァは成仏を求める修行者)とするのかどうかは読み手であるみなさんに委ねますが、これからも波、海を神だと信じ、尊び、三十二相八十種好の全てを表現、体験していくことを誓った。
「波トンネルのむこうに真理があった」とこの一枚の波写真から啓発されたのか、アニミズムに引き寄せられたのかは定かではないが、その意味とインスピレーションを強く感じ、筆をとってみました。

みなさんもどうかご自身の運命と、善で得た賞と共にお進みくださいね。
さまざまな神や仏を引き合いに出してしまいましたが、どの神にも真実はあり、それを活かすのも流すのも個人の受け方である気がしています。

 

(了、2009.12.30)

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