| 遥かなる道、それを導く魂たち“Destiny〜Those who lead the way” どうなろうとかまうものか、どんな荒れ狂う嵐の日にも時間はたつのだ。(シェイクスピア、マクベスより)Come what come may, Time and the hour runs through the roughest day. アーチボルド2004 種子島、東京、北関東 溶けた暖かな陽、一五夜の月が岬から上がり、幾筋ものうねりが流れ着く渚。電光石火の生き方よりも自然との付き合い方を求め始めた父、そしてその背中を追いかける息子。この場所で陽はまた昇り、海に溶けることを繰り返すのだろう。目を閉じて、この自由と永遠を祈る。遠くからやってきた親子はこの旅で何を想い、何を感じたのか。刻み続ける時はやがて世代を変えるのだろう。それは伝説になるのか、記憶の隅に追いやられるのかは、各々の歩き方の現れなのだろう。インディアンの神話で『木や岩、風までが魂を持っている』とあるが、それなら俺たちにも魂は存在しているはずだ。「遥かなる道のり、それを導く魂を探る旅」“Destiny〜Those who lead the way” 空のひろがりは夜明けと、日没にとりわけ美しくなる。荘厳なる黄昏空は炎上しているようにも、または天空から魂が降りてきたのかと感じられるほど艶(あで)やかだ。この感動を印画紙に焼き付けると、天使がたなびかせた燦爛(さんらん)煙のように映り込む。自然からの色彩を見るたび、「何の魂なのか、何のメッセージなのかを知りたい」と感じ始めた。そしてその鍵を解く男が俺の前に現れた。 俺はその男と旅をした。南太平洋に浮かぶ島で夢のような波を発見し、中米では真っ暗な茶色いバレルを味わった。彼の生き様を石に例えてみると、ゆっくりと転がる巨大な石か。その石の昔は強大で、なおかつ切っ先は尖り、神速で回転していたはずだが、年月が尖った隙間を円く、そして重く、硬くさせていた。 回想すると、15年前、偶然行った南カリフォルニアーー男の旧ホームグラウンド、Tストリートーーで当時19才の彼を見かけている。 彼は何度も波の上から飛び出し、ロール上で激しく水しぶきを上げていた。乾燥した青紫の空の下、歩道橋を上がり、丘の上にいた取り巻きにダブルウイングスワロー、ディープ6チャンネルのサーフボードを渡し、タトゥーの上に革ジャンをはおり、青い瞳、長髪のブロンドをなびかせ、ハーレーダビッドソンにまた がり消えていった。まるでハリウッド映画の世界だが、痺れるほどの感動を俺に与えた。フィジカルで、ハードコアな真のヒーロー、サーファーにとどまらない魅力は、当時の欧米のファッション誌を賑わせていた。 マット・アーチボルド。1968年生まれ36才、天才サーファーと呼ばれ、ティーンエイジになった頃には神童というスケールを飛び越し、伝説となっていた。周りにいた誰もが彼こそが世界一のサーファーだと信じ、長髪のブロンドをなびかせながらフルスピードでリップから飛びだすことに狂気した。また、波のカールをえぐるように高速カービングさせ、クラシック技の推進派にもその怪物ぶりを認めさせた。フルコンディションで出場するほとんどのコンテストで優勝し、多くの勲章を手に入れた。彼はポスターや見開きページ用に存在している、と言っても過言ではないほどフォトジェニックなサーファー。ディビ・フレッチャー(ハービーの妻、ホフマン家の次女)によって表現された彼自身の肖像画のようにビビッドな毎日でもあった。 そして長男が誕生。1949年型の愛車(余談だが彼は今でもこれに乗っている)からインスパイアしフォードという名前を付けた。サンクレメンテのメイン通り"エル・カミノ・リアル"に当時では革新的だったブティック調のサーフショップ『アーチズガレージ』をオープン。だが、管理面で憤(いきどお)り、店を失い、逃れるようにオアフ島ノースショアに引っ越した。円熟したバレルライドをバックドア、オフザウオールで披露し、メディアに再登場したのはこの頃だ。 1999年に、これも突然戻ってくると、昔と変わらない、いやそれ以上の波乗りを披露してみせた。ロカビリー/ハードコアが売りだったヴォンダッジ(ブリトニー・スピアのスポンサーでも有名)と契約。またプロフェッショナルサーファーとしてのキャリアに再び車輪を乗せた。その後某メジャーサーフメーカーと高額契約し、当時のASP世界チャンピオンだったサニー・ガルシアと対戦し、優勝している。これは親善チャリティーなどの試合でなく、ワールド・クオリファイ・シリーズ(WQS)の結果である。 現在はコンテストに出場しない、ごくわずかのプロフェッショナル・ソウルサーファーとして活動中。現在のスポンサーはルカRVCA、サンタクルズ・サーフボード、クロッシング・ウエットスーツ、アーチズ・ガレージ、オサイルス、アストロデッキ、G4。このマットが、「来年でも(試合)に出てみるか」などと言えば、世界選手権(WCT)のファイナルで戦うのを想像してしまうほどのポテンシャルを持っている。 その息子フォードは13才。おおらかなやさしい子で、マットを昔から知る人によると、笑った顔が父の小さいときにそっくりなんだそう。サーフィン歴は俺とマットが再会した頃(1999)から。波乗りに対して真剣に打ち込んでたのはバリエーションがあるエアやターンを見れば明らかだ。マットの得意技だったレイバック・スナップなどはまるでコピーだ。マットに言わせると、「まだまだあいつはターンもできないんだよ」と言うが、フォードも父と同様に見る人を魅了する才能を持っていることは間違いない。 さて、俺たちを乗せ、ロスアンジェルスを遅延出発した機内情報によると、貿易風が凪いでいたのか、いつものアラスカを通るルートではなく、太平洋を一直線に横切っていた。おかげで定刻よりも1時間も早く成田に到着した。遅いフライトだったのだが、友人に助けられ、湘南、茅ヶ崎に到着。翌日湘南から東海、浜松まで車で移動し、沖縄南方海上に発生した台風21号の位置を確認しながら名古屋空港から種子島入りした。 空港から宿ナライがある竹屋野に移動し、サーフボードが入った荷をほどき出発。国道から林を抜けて海に出る。闇にも感じられるほどの濃い木陰、蝉の声、樹木の間を揺れ輝く太陽、焼けた砂の先から洋(うみ)が見えた。「えび」というサーフブレイクだという。フォードとマットはケースから出したばかりの板を抱え、履いていたトランクスのまま海に飛び込んだ。 遙か遠くまで抜けた青空と、白い積乱雲の鮮やかなコントラストが水平線上を覆っている。温かな海にはターコイスブルーの波。南の島はまだ盛夏なのだ。 ある朝。波の大きさが変わらないため、狙っていた屋久島へ行こうと決定する。で、宿のダイチャンに交通を聞いてみると、「うねりが少しでも入ると船関係はすぐに欠航するんですよ。だから今なら行けますけど、帰ってこられなくなる可能性は大きいです。ただ飛行機なら最後の最後まで出るのでそれなら大丈夫ですよ.....」と教えてくれた。もう一度天気予報をチェックしてみると、沖縄下にあった21号がこちらに向け北上し始めていた。それなら屋久島行きは中止とし、ホテル前のオーバーヘッドサイズのカタパルトでサーフボード(戦闘機)
を離陸、滑降させた。 サイズアップしたので、島西側のシークレットリーフまで行くが、くるぶしサイズの波がだらっとリーフの上をよれていた。 夕刻頃晴れて、そらは淡麗な色を見せた。蒼い夜は星々を満開に咲かせ、十五夜の月。古来からこの月は秋の象徴であり、それは四季が次へ移行していく指標だった。ニュースを見ると、台風がさらに近づいてきた。 曇天、雨中のセッション、青い海を灰色に変え、また違う世界を表現している。この色を溶かしたフェイスは、あいかわらず美しく円弧を描いてフォームしている。 強風の中を視界確保のため島上空を高度旋回するプロペラ機。雲のすきまから下を眺めると、えびや中山、竹屋野という宿周りの愛しいブレイク、複数のロケット発射場、そして南の湾がひとつになっていた。この島で体験した全ては、夢から醒めたばかりの意識のように様々な想、悟、邂逅が浮遊している。できる
限り多くをそこから拾い上げ、少しでも長く記憶に留まるように収めていった。 これで俺はアーチボルド親子とコスタリカ、ハワイ、カリフォルニア、そして日本のさまざまな緯度で時間を過ごした。純粋な精神の持ち主たちが日本で、何を思い、こころに刻んだのか。 行く先々で乗ったそれぞれの波は、胸に刻まれ、研磨され、美しい宝石となっていく。やられた恨めしい波も時が風化させ、記憶の隅に追いやっていく。人生と波乗りはよく似ている。 |

































