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naki's blog

【naki’sコラム】vol.46 自由(Free)

火が上に向かって燃えるように、自由というのもまた上に昇っているように感じる。
でもよく考えると、自由なのだから下るのも勝手で、横に行こうが、縦横無尽にどこに行こうといいのが自由。
私たちにとって、いったい何が自由なのかを考え、自由に関するキーワードを拾うことにしてみた。

「休息」「安らぎ」「時間」「奔放」「夜明け」「無人」「空」「好」「風」「ひろがり」「鳥」「美酒」「瞑想」「休」「極楽」「自在」。
こうして書きだしてみると、自由という言葉を連想させる言葉は思っていたより少なく、しかも実に色々な要素が絡み合わないと難しい、と気づいた。
自由とは青空に浮かぶ雲のように無限にあるものだと思っていたのだが、年齢を重ね、学校に行くようになり、仕事に就き、その責任と比例しながら自由が少なくなった。
そこで、たくさんの自由が欲しく、退職するとする。
そして時間的な自由を得る。
しかし、その後「好きな場所に行けない」とか、「欲しい物が買えない」、「好きなことができない」、「好きなものが食べられない」等と金銭的な不自由がやってきます。
それが自由?
大きな自由を求めたのに、自由でなくなってしまった典型です。

海人(うみじん)の自由=フリーダムとはいったいなんだろう?
「すべからく美酒をもって生涯をおくるべし」
とは、詩人としての最高位の『詩聖』という呼称で知られる杜甫(とほ、712年-770年)の詩だが、それを想像してみると、浮世絵の中に浮かぶ夕陽のようにやさしくゆったりとした気持ちとなる。
「自分の望むフリーダムを手に入れよう」というスローガンでこのまま書き進めてみる。

(人々の項)すばらしき人、不良なる男たち、ハードボイルド、稲妻なる生き方、夢実践型、それぞれの個性的な生活、成功者はそれをかぎつけるのがうまいのか、または才能なのか、それぞれの光り輝く「自由」を手に入れている。
ドノバン・フランケンレイターは『FREE=自由』なる曲のソングライターで、世界にその自由な気持ちを歌い伝えている。
で、「自由って何?」とドノバンに聞くと、「自由とは夢を容れるための器さ」と言った。
彼の書いた『FREE』という詩を読むと、ここにも「空」「夜明け」「風」「こころ」としたためられて、詩の最後には「自由は気持ちいいものですよ」と着地させている。
この詩は、広々としたラグナ峡谷に建てられた彼の自宅で書いたものだ。
彼が詩を書いていた風景を思い浮かべてみると、こころがゆるやかになってきた。
自由は環境を作り、環境は自由を作る。
しかし、すばらしい環境の中、自由になれず、そこにはまりこんでいる人たちも知っている。
それぞれの空間に潜む自由の粒子をうまくコントロールし、それを表現しなくては自由はやってこないことがよくわかる。
「VIVA自由人!」
つまり、その方法を会得した人たちはいつも笑っている。
社会的なことなんて何もいらない。
自分のために自由を勝ち取るのだ。

(鳥の項) 「世の中は食うて かせいで 寝て 起きて さてその後は死ねるばかりぞ」
と詠んだのはトンチの一休さんで知られる一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394-1481)で、世の実をほれぼれと説いている。
話は変わるが、鳥が好きでたまらない。
鳥の写真はもちろんのこと、鳥の絵を描くと、一瞬鳥の気持ちとなり、この世を俯瞰(ふかん)位置で捉えることができる。
でもその浮遊感は想像にしか過ぎず、やはり鳥がうらやましいな、と思う。
鳥のようにしがらみもなく、いざとなると飛んでいってしまうのが、いさぎよくて自由の象徴なんだろうな。
でも鳥を追いかければ自由になれるのだろうか?
とも自問してみる。
鳥に学ぶ自由だね。

(親子の項)理想的な調和社会・階級闘争のないユートピアの実現を目指して、「新しき村」を建設した武者小路実篤(むしゃこうじさねあつ、1885-1976)は、
「桃栗三年柿八年 だるまは九年 俺は一生」
という語録を残しているが、現代の自由人はそのくらいの気迫と根性がないと自由ではいられないはずだ。
子供は自由のかたまりだろう。
好きなことをし、会社も学校もなく、責任もない。
大人から見るとたまらなく子供はいいなあ、と思うのだが、子供の頃は早く大人になって、親に気兼ねせずに自由に遊びたかったことを覚えている。

閑話。
「隠棲」という言葉があるが、英語では脱落という意味と同じドロップアウトと訳される。
隠棲するのは自由という名の羽根だと感じるが、いざ自分がやろうとすると、かなりの体力と、企画力がいることに気づく。
なので、隠棲イコール「自由」とは言いがたい。
話は大きく飛躍するが、私たちを受け止めている宇宙は、誕生から四十六億年が経過しているという。
そこで、その広く深い宇宙は自由なのか?と問えば、「暗」「寒」「熱」「真空」という理由で、人類にとってはこの地球以外はとても不自由な場所となる。
その宇宙、つまり空を見上げ、両手を合わせ「神様、私を自由にしてください」とお願いしても、自由はやってこないことを俺はよく知っている。
時には大きな自由を求めて、自由という名の迷路に迷いこんでしまうこともある。
その迷路に入らないようにするためには両手両足を伸ばす、たっぷりの空気を吸い込む、好きなだけ寝る、好きなものを食べる、好きなことをする、好きな場所に行く、好きな波に乗る、というどこにでもいくらでも散らばる幸せを知ることだ。
それらをかき集め、企画し、実行して自分自身を自由人と名乗るのか、変な常識にとらわれて押し込められた毎日を牢屋生活とするのかは、自身で決定することだろう。

(波乗りの項)体ひとつで沖に出ることは、世間からの逃避であることがわかる。
日常を断ち切り、携帯さえ届かないという環境で、海と遊ぶことが自由につながる身近なトンネルなんですね。
波乗りをすると、とても自由な気持ちになります。
どうしてそんな気持ちになれるのかを考えてみると、「空の拡がり」「海が広いから」「海のエネルギーに触れるから」「夕陽のやさしさ」と、自然からの印象を受けた理由が挙がってきます。
特に波乗りに身を投じた初期の段階では、その感じられる印象が跳躍しているようで、溢れる感動にその身を浸せることでしょう。 
ですが、波乗りに長く関わってくると、廻りから、またはメディアからの「意見」や「哲学」、「レッスン」はたまた「トレーニング」、「生き方」、「考え方」、「技術」、「ファッション」という教育や押しつけがどこかからやってきて、その感動を奪い取ろうとします。
そんな表面的なことを言う知人や、それのみを書いたHOW TO本なんて絶交、またはリサイクル箱に捨ててしまえ、と言ってみたいのだが、なかなかそんなことをできない自分を知っている。

(無人波の項)自由と波乗りは宗教と似ている。
信じる者は救われる。
海を信じる俺たちは今日も海に出て、散らばった自由のかけらを吸い込み、それを熟成させ、スーベニア(souvenir=記念品)として持ち帰り、明日への糧とする。
それができない者はあの正体のない不安に全身を浸食されていくのだろう。
沸きあがる情熱は自由の化身であり、それを受け止める海というのは偉大な自由の権化である。
時にやさしく、時に厳しく、大きな器で全てを包み、受け止め、誕生させる。
燦爛なる夕陽を通過し、清浄なる夜が押し寄せて来ると、その自由の粒がコーラの泡のように無数に湧きたち消えていく。
消えて行くのだが、自身に深く刻み込まれた自由は、朝が来ればひょいと戻ってくるという確信がある。
海人としての誇りと艶を「楽しむ」という達観でコーティングすると、こんな化学反応を起こし、生きていく上での奇跡のエッセンスとなる。
ささやかなものだが、人生を彩る豊かな燃料となるのが自由なのです。
わが母は、「人生はあなたの心次第」と教えてくれました。
運や幸せ、そして今回のテーマである「自由」は、その字の通り自らを導き、また自らを導くものなのでしょう。

(初出誌『海楽2007』)

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