心が欲しているときに海に行く。
こころが疲れたときも海に行く。
波乗りは、自分ができる最大の表現。
すべての波は物語を創り出す。
水平線に見えた影の時点から、
波に乗った後、
つまり後々酒場で
「滑走について」と語られた後も波という波は、
妖しい魅力で俺たちのこころをとらえて離さない。
それは選び抜かれた珠玉の波がたった一瞬、
切り立って崩れるまでの瞬間のことを指している。
毎日の正確な、そして時間に追われる生活、
何か生産的なことをしなくてはいけない日々、
それを求められる完璧に近い社会だからこそ、
波乗りという悦楽が浮き上がってくるのか。
表現しようがなく、
そして不自由な波だからこそいいのだろうか。
波に乗るサーファーは、
じつのところ自分自身ではどうにもならない不自由さを愛し、
その中で1%、一分の向上や進歩に歓喜し、
日夜それを祝っている。
波に乗っているときは世間の社会性だとか、
記憶力、世渡り、昇進ということは全く考えず、
また貯蓄や老後や税金のこともかまわず、
その一瞬を生き、
そして一瞬を少しでも前に出すことに夢中になっている愉楽が、
波乗りの本質なのだろうか。
波に乗る究極を「無心」
と例えられるが、
自分自身では無心にはなりきれず、
「獲得」
そんな言葉がいつも浮かんでくる。
「波に乗る」
こんな明快で単純なことが俺を惑わしつつも、
実際には生きる大きな糧となっているのはなぜだ?
ちっぽけな自分が無限大の海と相対すると、
さらに大きなものに遭遇する。
滑走を例えるなら、
閃光のきらめきに似ているようだ。
その瞬間をこころに閉じ込めるだけで、
俺たち、
つまり波乗人の毎日が鮮やかに輝きはじめる。
信じられないような美しい夕焼けの今日。
サンクレメンテの海にサーフボードが艶やかに溶けていく。
波を夢見て、明日を生きたい。
明日はきっとやってくる。
明日よ、やってこい。
■