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金色波_(2022年3月号BLUE誌巻頭コラムより・1638文字)

金色波(こんじきなみ)

 

旅をするということは、

霧の中に自分の体を入れていくようなことである。

限定的な視界のなか、

目を凝らし、

進むべき方向を見極める。

発する言葉は極端に減り、

その時間を利用して、

「何か」の主題的意味を探ろうとする。

旅という行為の中にいると、

そんななかに生きることができる。

さて、

競争社会のことだ。

どこもかしこも競争のようになっている。

サーフィンもそれと無関係ではなくなり、

ついに巻きこまれてしまったようだ。

だが、

競争とは関係なく波に乗ることができることに気がついた。

競争は相手がいるからそうなるので、

ならば『無人波に乗る』というのはどうだろうか?

混雑で知られる湘南でさえ、多数の無人波が存在している。

無人波はいわば超アングラ(アンダー・グラウンドの略)なサーフブレイクと言えるだろう。

無人波のたいていは、

「メインよりサイズが小さく」、

「波質もそこまでよくない」のだが、

それらを受け入れられたら誰でも無我という世界の扉を開くことができる。

無人波には、

自己と向きあい、

常に肯定と否定のはざまに精神を置くことができる。

さらに旅先となると、

超常的な気持ちとなる。

精神を研ぎ澄ます。

鳥が滑空する羽音が聞こえ、

潮の変化が感じられる。

そんな魅力に取り憑かれ、

各地で無人波を探してきた。

すると、

「無人波は岩場廻りに多い」とわかってきた。

無名ブレイクの岩場が危険なのは、

“フィンやボードがひっかかってしまう”からで、

さらには、

“ワイプアウトしたときにケガをする”からだ。

ならば、

フィンがひっかからないようにフィンレスでサーフし、

ケガをしないように、

そしてワイプアウトをしないようにする。

高度に感じるだろうが、

こういうことをしたくてサーフィン修行をしているので、

これは良い機会だと、

武道で言うところの

『真剣組手』だと認識している。

そんなことを考えながら岩場にブレイクする波を見ていくと、

良波風のはすぐに見つかる。

ピーク付近に目を入れると、

真下付近に大岩があるようで、

波はぶれ、

リップが生きもののように跳ねる。

跳ねるのは波底に隙間があるからで、

丸い岩ではないことがわかった。

深さは50cmくらいだろうか。

潮は?

うねりの向きは?

そんなことまで考えることができたら、

その無人ブレイクはいつかサーフ可能になるだろう。

「潮位160cm以上、南うねりが入っていること」

仕組みがわかればそこまで危険な波ではない。

大岩の前で波を待ち、

うねりを読んでいく。

けれど、

失敗するとどうなるのだろうか?

岩の餌食になってはさまれてしまうのだろうか?

そんなことを考えると、

緊張で喉はやたら乾き、

己の全てを反省しにかかる。

しかし元より答えなどない世界である。

仏教の教えではないが、

これも正しい、

あれも正しいと、

肯定をはりめぐらせて自己の精神回生を図る。

沈黙と圧倒の時間が過ぎると、

いよいよ乗るべき波がやってくる。

そのうねりは金色(こんじき)に光っていることだろう。

金波は、

海、

風、

うねり、

光のたたずまいをたっぷりとたずさえ、

私の希望や不安にかかわりなく、

堂々とやってくる。

フランスの叙情詩ではないが、

『波は、全て予定された中にやってきて、
そして偉大なる表現を見せて、泡となって還っていく』

のだろうか。

私はこう考えた。

波は、

水に還りつつ、

気体となり、

それが集まって風になるのもあり、

どこかに混ざって何かの一部となる。

波乗りというのは、

自然との調和を知ることでもある。

対人との競争ではない。

そんな心持ちで波に乗ると、

私は何かから救済される。

だが、

次の瞬間には「この世」に舞い戻ってきて、

息をひそめつつ、

冒頭の旅先の気分に戻る。

ここに謹んで金色の波に拝する。
伏して願わくは、
この行いに乗せて心と悟りを開かせんことを。
この世界は何かの恩をこうむる。
道に迷うすべての者は、親しき、
憎きの区別なく、
ことごとく真の世界へと向かえばよい。

 

これは1200年も前の、

弘法大師『空海』の言葉である。

(了、2022/02/15)