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【サーフィン研究所特大号:歴史編】コスモス・サーフボード・デューク・カハナモクとポール・ストラウチの関係_(2089文字)

今日は近代サーフィンの始祖、

デューク・カハナモクの話を書いてみる。

彼の名前は、

日本ではあまり知られていないようだ。

世界各地にデュークの銅像があり、

商業的にはハワイ各島と、

カリフォルニアの名所には、

彼の名前を掲げたレストランが展開されているほどのネームバリューがある人だ。

1890年にオアフ島に生まれたデューク・カハナモクの歴史を調べていた。

彼は泳ぎがとても達者で、

20歳のときにホノルル港で開催された競技会(1911)に出場すると、

100ヤード(91.44m)で世界記録を4.6秒も縮め、

220ヤード(201.168m)でも同様に世界記録をたたき出したという。

さらに書くと、

〈海水コンディション〉と注釈があり、

当時の水泳界では怪物の登場だったのだろう。

デュークは、

翌年のストックホルム・オリンピック

「100m自由形」に出場すると、

ダントツの速さで金メダルを獲得した。

ちょうど先週、

WSL/WCTでサンセット・プロが開催されていたが、

このイベントの前身は、

『デューク・カハナモク・インビテーショナル』だ。

デューク・インビテーショナルは、

1965年の12月に始まったとある。

しかも当時では珍しく、

映像がたくさん残っている。

少し気になって調べてみると、

このサンセット・ビーチで開催された世界選手権は、

デュークのパートナーがワイキキに開店させたナイトクラブ

『デューク・カハナモクのナイトクラブ”マクヴェイ”」

(Duke Kahanamoku’s Nightclub “McVay”)

を宣伝するために考案されたものだと記録にあった。

晩年のデュークのマネジャーをしていたキモは、

(キモ=ジェームス・ワイルダー・マクヴェイ:James Wilder McVay)

元々はミュージシャンであるが、

その天才的なマーケティングで、

まだ無名だったドン・ホーを見いだし、

歴史的な名曲「タイニーバブルス」を生み出した。

とまあ話はそれていくが、

デューク世界選手権に戻ると、

どんな選出の基準だったかはわからないが、

エディ・アイカウやベン・アイパが選考されていた。

ちなみに1967年優勝のジョック・サザーランドまでは、

デュークは優勝選手に金のデューク像を手渡していたという。

上の画像中央は、

創世年優勝のジェフ・ハックマンで、

後のクイックシルバー社の創始者だ。

デュークはオリンピックの名声があり、

得意のサーフィンを伝えるためにハワイ州の命を受けて、

1914年の終わりから、

翌1915年のオーストラリアに行った。

シドニー北部のフレッシュ・ウォーター市だったという。

その怪物デュークが蒔いたサーフィンいう種子が、

オーストラリアで花をつけ、

それがウェイン・リンチ、

トム・キャロルという系譜となり、

いまはジャック・ロビンソンが受け継いでいる。

ハワイ政府は、

オーストラリアでのサーフィン展の評判がよく、

富裕層の観光客が増えて気をよくしたのだろう。

何よりもデュークの人間性がアロハ精神に富み、

その包容力で各地の人の心を開いたのだろうと想像できる。

そのデュークの弟子の一人が、

上の画像のポール・ストラウチJr.だ。

彼のことは、

『波乗天国』著者のひとり、

村上春樹似のYYさんのコラムに書いてあるので、

ここに許可を取って引用させていただく。

”〜ジェリー・ロペス、
別名「ミスター・ パイプライン」は、
ポールのことを
「最もスタイリッシュなサーファー」
と称し、
高く評価したのに、
ポールのことが多くの人に知られていないのは不公平だと僕は思う。

ポール・ストラウチJR.(中央左)

デューク・カハナモク(中央右)

.

しかしまあそれはそれとして、
ポールは相当にグッドサーファーらしく、
デューク・カハナモク・チームとして、
他国へ向けてサーフ親善をした一人である。

デューク・カハナモクは、
サーフィンではローマ帝国の初代皇帝と同じ位置付けの人であり、
このときのメンバーはフレッド・ヘミングス、
ブッチ・ヴァン・アーツディレンとジョイ・カベルであるので、
ポールは当時の最上級のサーファーだったと、
ここからもわかる〜”

Waikiki, Hawaiʻi

.

デュークがオーストラリアに行った当時

——1920年頃は、

松の木片を求めてそれを削り、

磨き、

さらには木片を合わせてサーフボードにしていた。

または中空の箱状(BOX)というのがあり、

こちらの形状は廃れてひさしい。

サーフボード造形への想いを馳せつつ、

100年前のデュークのこと、

そして当時のハワイのことを思い浮かべていた。

すばらしいことは、

キモ(写真右)がデューク(中央)に対して、

聖者としての純粋なリスペクトがあり、

大変な労力のビジネスを真っ当に引き受けた人だ。

その裏書きが、

今もデュークというレストランが繁盛している理由だろう。

ちなみに左がドン・ホーだ。

【提供:コスモスサーフボード】

【巻末リンク:デューク・カハナモクについて】

【サーフィン研究所】デューク・カハナモクの誕生日_サーフィン歴史のおさらい_(2222文字)

【巻末リンク*2:ドン・ホーの珠玉の名作】

Happy Surfing and  Happy Lifestyles!!