たび
小さな波の朝、子供たちと一緒にサーフィンしていると、巨大ダブルレインボーが現れた。
メインの七色のアーチは上からレッド、オレンジ、イエロー、グリーン、ブルー、ネイビー、ムラサキと、見渡す限り、つまり視界の左端から右端まで円弧大きくかかっていた。
2本目、つまりメイン上にかかるサブアーチも薄いながらもばっちりと左右に架かっている。
見とれていると、まるで天上世界に来た錯覚を受けた。
情報あふれる現在でもこんなインスピレーションを受けるのだから、古代の人は虹を見て何を思ったのだろうか?
「あふれるばかりのハピネス(歓び)」。
今も昔も虹は前向きなパワーを与えてくれる。
メインのレインボーバンドの下からさらに色が付いているのを発見した。逆色相であるサブバンドと同順にネイビー、ブルー、グリーンとついている。目の錯覚かと思ったが確かに色が出ている。最後のバンドは目をこらすとイエローのようなそうでないような。オレンジ、レッドまで行けば完璧なトリプルレインボーとなるのだろう。
今日から三週間かけて飛行機6本と船を乗り継ぐ旅となる。
「なぜ俺は旅に出るのか?」と自問してみる。
はっきりした理由は、「次の移住先」を探しているということ。「さすらう人生」そんなのもいいな、と考えている。
最近の旅は野宿が多い。
「野宿とは月を知ることなり」というのは俺が今思いついた言葉だが、新月が満ち、満月が欠けるのを見ながら旅が進んでいく。
月とは、宇宙を見ることだと思う。よく晴れた新月の真夜中に目を覚まし、数億と散らばる星々を見ていると、宇宙空間に放り出されるようだ。こんな時、俺は広大な宇宙の距離と闇に震えてしまう。闇の怖さ、夜の永さを知り、早く陽が昇ることを願う。
天候を感じるのも野宿の持つ要素のひとつ。暖かい日ばかりではなく、強風、荒天、氷雨の下、寝袋の中でいつか暖まれるときが来ることを願う、というのは、人生と旅というのは似ている。
とすると、旅は人生の短縮版となる。
人生と違うのは、旅は完結したのを記憶に留めることができる点だろうか。
「闇が白む」という表現そのままに漆黒が蒼くなり、薄くなっていく。それはゆっくりと暖色へと変わり、浮いている雲に色をつけた。
海はまだ暗い陰だったが、近づいてきたうねりのふくらみは、切り立ち、果てる瞬間にその夜明け色を反射した。
少し凍える体を動かしながらボードを抱え、沖に出る。
雲は黄色から濃橙、漆赤、淡赤、ピンクの色彩で世界を満たしている。俺が立てた水しぶきが黄金のように粒を燦めかせて散らばっていく。豊満なる色彩に満たされた俺は、「生きていること」を深く感謝する。
この波も俺同様この永き夜を越えてきたと思うと、愛おしい気持ちとなる。
深き遠き夜を通過すると、色彩感覚が研ぎ澄まされる。
こうして「夜と朝」、つまり「陰と陽」を感じることが俺にとっての旅の意味なのかもしれない。■
(了、初出誌不明、2007年作品)