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naki's blog

私の波乗りの歴史_第6編_(2955文字)

第6編まで進みました。

元々はちょっとだけ書こうと思っていましたが、

先輩や友人たちからかなりの数のメールが届いていて、

「オレはどこに出てくるのか」

「もっと書いてくれ」

「懐かしすぎる」

そんなご要望もあって、もう少し続けます。

ただどこまで書くのか、歴史編はどこで線を引くか、

それが私の焦点となっております。

昨日まで、第5編はこちらです↓

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パイプライン

私たちノースショアに滞在する日本人サーファーたちは、

神話のような波に挑みながら、祈るような毎日を過ごしていた。

ある人から聞かされたのが、

「メディアへの露出」で、

これは、

“無料宿泊しているライダーは、ノースショア滞在中に必ず写真を残さなければならない”

そんな不文律があるらしかった。

ただ、今と違ってデジタルカメラは普及していないフィルム時代だった。

通常はポジティブというフィルムを使うので、

1枚撮るのにフィルムと現像代だけで1ドルの原価がかかり、

それに滞在費、渡航費を合わせると1枚10ドルでも出血大サービスだと、

大雨日のガスチャンバーズで知り合ったNさんという日本人写真家は教えてくれた。

それに日本人フォトグラファーは、

日本人を撮ってはくれるが、

じつに打算的なので、

「あ、トム・キャロルが乗った」

「マーチン・ポッターだ!」

もちろんだが、そうやってメジャーサーファーがいると、

表紙や見開き狙いと的を変えるのだそうで、

そうなると日本人サーファーは二の次で、

この状態で写真を残すというのは、

『コダック・リーフ』と呼ばれるオフザウオールから、

バックドア、パイプライン、

ロッキーライト、ロッキーレフトあたりでサーフして、

フォトグラファーがいるときに妖怪や伝説人、

または有名人よりも良い意味で目立った波乗りをしないとシャッターは押してもらえなかった。

「もしかしたら写真を撮ってもらえるかも」

そう考えて、コダックリーフに行くが、

挑戦修行中の私のようなサーファーを撮ってくれる奇特な人はどこにもいなかった。

それよりもフォトグラファーがビーチに並んでいるところは、

サーファーも激戦区で、波に乗るというより、

おこぼれ波を必死にテイクオフしていただけだから、

これは自分のしたい波乗りではないと感じるようになり、

自然にラニアケアとか、

ベルジーランドという写真方面に遠きブレイクに向かう毎日となった。

そんなある日。

夜明け頃、エフカイビーチパークからパイプラインをチェックすると、

頭くらいあるのだが、3人しか入っていない不思議な日があった。

無風で、しかも良く晴れている。

ちょうど5’10″を車に入れていたので、

「これはビッグチャンスだ!」

そうやってすかさずパドルアウトして、

すばらしいバレル波の壁に張り付けた。

ここで感じたのは、

ずっと探していた波乗り技術のドアを見つけ、

すぐにそれを開いて新しい世界に入れた気がして、

うれしくて何度もテイクオフを繰り返していた。

だんだんセクションが深くなっていった。

「まだ抜けられる」

そうやって奧からテイクオフして張り付いて、

バレルインしてすぐにフォームボールという泡層に乗ってしまい、

沈められて、巻き上げられて、浮き上がってくると、

ボードの上半分がなくなっていた。

生まれて初めてボードを折ってしまった。

こんな簡単に折れてしまうのもパイプラインならではだと、

悔しがるよりもむしろ感激し、先輩たちが教えてくれた

「折れた部分はファイバーグラスが露出しているからそこが危険だから触らないように」

そんなことを思い出しながら泳いで上がってくると、

白人サーファーがボクの上半分を掲げて待っていてくれた。

2ピースとなってしまったボード。

ビーチパークのシャワーでよく洗い流して、

「またつないで乗ろう」そんなことを考えていた。

ボードをモンテカルロ号に積もうとしたとき、

有名な日本人写真家が初めて話しかけてきてくれた。

「ボードをそんなにしちゃったらダメだ」

そんなことを言いながら、

彼はボクがここでやるのは1000億京万光年は早い、

そう遠回しに伝えてくれた。

ボクは笑顔で、

その言葉の真意には気付かないふりをしながらそこを立ち去って、

サンセットマートで大好物のエクレアを食べながら、

それからもパイプラインのことをずっと考えていた。

常にテイクオフの身振りを練習し、

ドロップインする感覚、

波への漕ぎ出す位置、

テイクオフしてから背中側のレイルを滑らせるように、

そして引っかけるように、

レイルはこうつかんで、

顔の向きはこうで、胸はこの位置で、そうやっていた。

壁を見ると、

垣根でも車のドアでもそんな練習をする毎日が始まった。

嵐の日はリアム家に行って新島仕込みの卓球をするようになったが、

そこでもバックサイドにこだわり、バックハンドだけで卓球をしていた。

実際の波乗りではライト、

つまりレギュラーの波が主流のラニアケアに行ってもバックサイドになるレフト、

ププケアでもバックサイド波を探し、

バレルにならないのに壁に張り付いていた。

そうこうしていたら大きな西うねりが入り、

それはそれはすばらしいパイプラインが姿を現した。

デーン・ケアロハ

サイモン・ロウ

マーチン・ポッター

デレック・ホー

リアム・マクナマラ

ゲーリー・コング・エルカートン

ロス・クラーク・ジョーンズ

トム・キャロル

ロニー・バーンズ

こんなすばらしいサーファーたちがピカピカのパイプラインを滑って、

ときには怒濤のようなバレルから飛び出してきていた。

時にマーチン・ポッターことポッツは、

ニューカマーの筆頭で、彼が乗ると、

岸に30台は立てられた三脚の上から、

けたたましいモータードライブのシャッター音が、

まるでオーケストラのように鳴るので、彼が乗ったことはすぐにわかった。

先日出会った怖い日本人写真家もいて、

ボクのことを見ると、気持ち悪いものを見るような顔で睨んでいる。

パイプラインは、

トリプルクラウンのトリであるパイプラインマスターズを控えていて、

毎日ものすごく混んでいた。

でもこの日は、かなり空いている、といっても30人くらいが入っていて、

もしかしたらボクにも乗れるかも、

いや「あの波に乗りたい」

そう感じ、さらに目に力を込めて波チェックしていった。

この波が上がるとは、

ラジオのブイ情報やみんなの話題で知っていたので、

最大サイズの7’6″ガンは車に入れてきていた。

相撲ではないが、

やがてボクの集中力が最大限まで達し、

“時間いっぱい”になったので、

車からボードを出してワックスを塗って、

しっかりと背筋をまっすぐにして歩き、

いつもの場所からパドルアウトしていった。
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この編、明日に続きます。

私の波乗りの歴史_第7編_パイプラインの波_(2169文字)

201604_Factory_9342

Nation工場に、

サーフボード素材では基本となるブランクスが届いた。

シェイパーたちは、

これにそれぞれの理念を描いた曲線を刻むのだろう。

DSC_9329

それではまた明日ここで!

Have a super fun day!!