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【佳境の特大号】私の波乗りの歴史_5編_ノースショアはサーファー神話製作場_(3925文字)

今日は第5編目です。

初ノースショアで、全てに思い上がっていたボクは、

サンセットで、

ハワイの波乗りの神さまにこってりしごかれていた。

私の波乗りの歴史_第4編_ハワイ到着_(1812文字)

 

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フィットハウス。

この当時

ーーきっと今もそうだろうがーー

サーファーにとってのノースショアは、

ドラゴンボールでの”カリン塔”であり、

ブルース・リーの『死亡遊戯』で猛者が待ち受ける場所だった。

そんな位置づけで臨むノースショア。

そのフィットシステム・ハウス、

通称フィットハウスに滞在することは無料とあって、

私はこのノースショアを背水の陣、

または項羽の四面楚歌とし、

最低でも3ヶ月は滞在して、

その真の波に乗ることを目標に掲げていた。

その副賞の無料エアチケットは、

無料だけあって、

10月、

または2月の閑散期の火水木曜日のみ出発可能だと注意書きにあり、

それ以外は追加料金とあったので、

フィットハウスの開催日より2週間ほど先にやってきた。

空港では、

「ハワイに留学するの」

と言っていた謎の美女H嬢にピックアップしてもらい、

その彼女が売りたいという車を得るに至った。

「シボレー・モンテカルロ」200ドル。

当時のドルレートが135円ちょいだったから

3万円弱で手に入れた初めての外国での車であります。

(実際にはボコボコベコベコサビサビのボロ車でありました)

私が先がけて到着することを知ったフィットの岡本さんが配慮してくれて、

日程を早めて、

フィットハウスがオープンされるということになった。

このフィットハウスがあるクイリマ・リゾートは、

タートルベイ・ゴルフ場に隣接したコンドミニアムで、

焦げたような茶色の壁、

まるでレッドウッドを思わせる高級な外観で、

ストゥーディオ(日本で言う豪華ワンルーム)から、

4ベッドルームまであるそれは瀟洒で、

大きな家に見えるタウンホーム群でありました。

フィットハウスを担当する不動産エージェントは、

シンディという老人にさしかかる頃の女性だった。

彼女が住むというW103号室を訪ねると、

「吠え声がうるさいから声帯を取ってしまったの」

そういうシーズー犬の

「くひゃくひゃ!」という吠え声の歓迎を受け、

じつに簡単に鍵を貸していただいた。

入ってみると、

3ベッドルーム+デンの豪邸にひとり。

一階に一部屋。

トイレと洗面、シャワーバスの部屋があり、

4つの電気式コイルのレンジと巨大冷蔵庫がある大きな台所。

リビングルームとダイニングを兼ねた部屋がまた広く、

そこにはソファとテーブル、

TVがあって、

階段を上がるとデンという広間があり、

日本流に言えばそれは12畳くらいだろうか。

そしてその奧にもう一部屋10畳くらい。

またトイレと洗面、

シャワーバスの部屋があり、

最後にマスターベッドルームという15畳くらいの部屋が、

キングサイズのベッドを中央に鎮座させ、

そのまま奧のマスターバスルームに続き、

専用のトイレ、

シャワー、

洗面が二つもついた王さま仕様であった。

2週間後に千葉公平さんたちが来られるから、

良い部屋は使わずに、

とりあえず一階のベッドルームに荷物を運び込んだ。

時差ぼけもあって、

夕方くらいからぐっすりと眠っていると、

夜半にドアをズドズドとノックする音がした。

怖いので無視し、

翌朝になってから見てみると、

ドアに警告書が貼られていた。

それには、

「パティオ(庭)に洗濯物を干さない」

という項にチェックがされており、洗濯物の上に線が引かれて、

WETSUITSと大文字で書かれていた。

どうやらハワイはウエットスーツですら外に干してはいけないらしい。

所変わればイロイロ変わる。

それならローカルたちのようにトランクスだけでサーフすればいい、

直感的にそんなことを考えていた。

ハワイの香りというのか、

あの青い空を取り巻く、美しい大気。

わがモンテカルロ号の大きな窓を開け放って走るハイウエイは、

大瀧詠一さんの名作『A LONG VACATION』の、

永井博さん作ジャケットを思い出すにいたった。

a_long_vacation

数日前までは、

深夜からお昼までを横浜市中央卸売市場本場にて、

強制労働に似た高給バイトという名の、

ドレイ毎日との対比に思わずニヤケてしまった。

そのボロボロのモンテカルロ号と私は、

ワイメアもパイプラインもわからないままエフカイビーチパークを見つけ、

そこの右側の波(ププケア)や、

ハイウェイからサーファーが出入りしているのを見てロッキーレフトを発見するに至った。

この一帯の波は岸から近いブレイクなので、

きちんと波チェックができた。

どんなに大きく見積もってもセットで頭くらいだったので、これならサーフできると確信し、

そのロッキーポイント(ロッキー岬)に行くことにした。

湘南で使っていた5’10″が、

この波へのベストマッチだと思ったのだが、

激烈波という噂のノースショアのことである。

得体の知れない波パワーを考えて、

少し大きめの6’2″を抱えていき、

岩がたくさんある砂浜に陣地をこしらえて見学していた。

沖から蛍光緑色のボードに乗ったフロントサイドのサーファーがエアをしまくっていたが、

着地に結びつくというより、

空に浮いた雲まで届けとばかりに離水を繰り返していた。

今思うと、

この彼がリアム・マクナマラだった。

その緑色リアムが乗ろうとすると、

ふざけながら邪魔をするティーンサーファーたちが3人。

ハワイアンスタイルの渋いサーファーたちが8人くらい。

他の白人サーファーも全員、

しっかりとしたターンで、

その岩だらけビーチの沖で、

ダイナミックに、そして優雅に波を乗っていた。

緑のサーファー以外は全員トランクス一枚。

新島系のパワーのようで、

バリのようなパーフェクト。

そうやって自分に情報をインプットして、

心のウオームアップをしていた。

前編にも書いたことだが、↓↓

私の波乗りの歴史_第1回_(2282文字)

ボクはリーフブレイクの鎌倉で波乗りをしていたこともあって、

こういうポイントブレイク、

そしてリーフブレイクのマナーは先輩たちから教えられて身についている。

今でも重要だと思っている波乗りマナーは、

「いきなりピーク付近に行かない」

「ピークと同じラインまで沖に出ない」

「とにかく新人はインサイドでサーフする」

そういったことはわかっていて、

その要諦は、

「新入りはもちろん、

茶帯程度では、

師範や達人たちと同じ土俵には上らない」

そんな当然なことだった。

のみならず、

これらサーフ達人と波乗り妖怪たちがいるロッキーポイントで、

ピークにパドルアウトしようとは1ミリも考えていなかった。

インサイドでやりたかったのだが、

流れがすごく、

サーフ雑誌でその高名を轟かせていたロニー・バーンズがいて、

ひとりで波に乗っていたのが印象的だった。

時間はたっぷりあったので、

ずっと見学していると、

ほぼ全員が同じタイミングで上がって、

あっという間に3人しかいなくなったので、

そのロニー・バーンズのやっていたブレイクで、

自分なりの表現をしたが、

揺れるようなバックウォッシュが常に入っていて、

波から軽く振り落とされたり、

インサイドでは強烈な流れがあり、

渦巻くような波を体験し、

それまでの海とか波とは全く違うことを身を持って味わった。

(自分はロッキーポイントでサーフしたと思っていたが、

後にそこはモンスター・マーシュという別ブレイクであったことを知った)

空腹からがら海から上がり、

サンセットの前にポツリと現れるガソリンスタンドの横のキャミーズ・マーケットに行ってみると、

隣が食堂(サンセット・ダイナー)と称していたので、

どれどれと食べたカルビプレートのおいしさといったら、

それまで食べたもので一番おいしいと錯覚するほどの味であった。

すぐにフードランドを見つけ、

「ファッティ・アヒ(鮪脂肪)」というもの鮮魚コーナーがあり、

これはどう見ても、

“トロ部分がたっぷりと付着した筋”が、

サクで1.50ドル(200円ちょい)と手書きされていた。

ハワイの人は、

こういうトロ系はあまり食べないのだろうか。

半信半疑で購入し、

それにアロハ醤油をたらして食べた味はまさしくトロそのもので、

毎晩これを購入して、

米を鍋で炊き、

筋から身を引きちぎって食べた。

週末になると、

タウン(ホノルル)から友人たちがやってきて、

そのププケアとか、

またはラニアケア。

みんなで食べたバーガーキングのワッパーというハンバーガーのおいしさといったら、

前出したカルビプレートを越えるような感動まであり、

ボクはハワイ生活を満喫していた。

2週間後、

本隊である千葉公平さんたちがやって来られた。

公平さんは、

私の師範にも似た雰囲気があり、

ひとたび波乗りすると、

両手ブラリ戦法(©あしたのジョー)で、

バックドアのチューブを抜けたりし、

恐ろしいローカルだったマイケル・ホーたちも

「コーヘイ、コーヘイ」と子どものようになついているのを見て、

なるほどこんな日本人サーファーがいるのかと感じいった。

公平さんの弟子たちは、

私が溺れそうになったサンセットの10フィートオーバーに普通の顔をして入っていき、

または大きな日のパイプラインにも乗っていた。

そんな伝説人と、

達人を取り巻く人と共同生活をすることで、

硬派な思想となり、

その化け物が、

「鋭利なリーフ」

という刃物を持ったような波に立ち向かっていく気力やきっかけとなって、

そしてハレイヴァのピークに吸われていき、

最後はピークの奧で浅瀬にどかりとやられてしまうという、

恐ろしいカレントや、

バックヤーズの激烈ウエッジするピークを目撃し、

ノースショアというのは、サーファーにとって神話世界なのだ、

そう確信していく毎日でありました。

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長くなりましたが、明日の6に続きます。

私の波乗りの歴史_第6編_(2955文字)