
立春が過ぎたころ土佐までやってきた。
大寒日はとても暖かく、
徳島の宍喰海岸ではトランクスとTシャツで泳いだ。
地球温暖化ということもあってどこも異常気象だから、
早い春だと浮かれた。
が、
なんと翌週に記録的な寒波がやってきて、
あまりの寒さに手の感覚がなくなり、
サーフボードを落としそうになった。

閑話。
自身の波乗り画像からさまざまなことを思い出していた。
ボトムラインがまるで奈落の底に見えたこと。
「波の芯」を読み、
電光石火のごとく飛ぶリップ(波先)をかいくぐり、
絶えず発生するフォームボール(波上に出現する泡の層)をいなす。
フィジカルでありつつ精神世界である。
両極がまざまざと浮かびあがる。
禅とサーフィンを結びつける理由はここにあるようだ。
禅をサンスクリット語で調べてみると、
「心を等しく持すること」という意訳があった。
まさに心を等しく、
正しく持たないと、
強烈な波には向かえない。
画像由来のイメージサーフをしてわかったのは、
「いま、これらの波には乗ることができない」
という原則だ。

サーフィンは儚(はかな)いもの。
どんなに祈っても願っても、
今日ふたたびこんな波がやってきて、
それに乗れる確率はほぼないに等しい。
また、
こんなパンピング日(マックス波が絶えずやって来ること)は、
たいていは台風波が届き始めて5日目とか、
1週間後に波高を最大まで上げたときだ。
となると、
連日の蓄積疲労によって、
背中は重く辛く、
紫外線で焼けた目はジクジクと痛み、
鍛錬が足りなかったと自省するほど足腰はヨレヨレだ。
根性とか、
入魂だと決意しパドルアウトすると、
海水がしみて視界は奪われる。
それでも波を仕留めるべく、
インパクト・パドル
(跳び箱で例えると「渾身の踏み切り」)
を入れてメイクした結果が記憶に焼き付いている。
辛い状況のなかで水平線に向かうのは、
長年かけて培った粘りと
「この波(The Day)を逃さない」
という執念みたいなものだ。

『白鯨(Moby-Dick; or, The Whale)』という冒険小説がある。
(1850年、メルヴィル)
主人公のエイハブ船長は、
白鯨(モビィ・ディック)に片足を食いちぎられ、
復讐だと公言して白いクジラを追い求めるストーリーだ。
この白鯨と、
波というのはおなじものだと気づいた。
幻影かもしれないし、
または信じられないほどの具体がやってくる。
サーフィンは現在完了型に思えるが、
じつのところ記憶に訴えかけるものだ。
こうして取り出すと、
さまざまな印象の断片があり、
ときに俯瞰して、
次に詳細までをありありと蘇らせる。

波に乗ることと、
ナイフを研ぐことは似ていると気づいた。
同じ動作、
パドリングやダックダイブを繰り返し、
その回数を増やすことと、
砥石の上で幾度も反復させて刃先を鋭くするのは同じ行為だともいえる。
研ぐ回数を増やすと切れ味が増す。
鋭利な刃先で波を追い求める。
鋭利でなければ、
真の波に乗ることはできない。
身体を研ぎつつ、
官能をひらめかせ、
空漠の彼方をたぐりよせる。
そしてまた海原に漂う。
私がパドルアウトし続けるのは、
波乗りの正体を探りたいからなのかもしれない。
(了、02/07/2025)

