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【サーフィン研究所特大号】年始タロジローとサッカー&ボディサーフ_ガラさん&ジャイアン+法王_(3285文字)

昨日は奇妙な風が日中吹いた。

一宮ジェフリーあたりでは北西風のオフショアで、

南に下り、

30kmほどのジュクオンに行くと、

真逆の南東オンショア。

でも隣のブバラカは北西。

サーファーで大混雑。

仕方がないのでクレセントに行くと、

南東オンショアというジグザグ風向だった。

去年のお正月もクレッセントに来たはずで、

あのときはタロー&ジローがいたなと回想していると、

「ナキさん〜〜」

大きく、

明るい声がするのでその方向を見てみると、

なんとジローがいた!

「おージロー!何やっているの?」

「ん、サッカーの練習だよ」

「へー、そのボールいいね」

「サンタさんにもらったんだ!」

「じゃあサッカーの練習をしようか?」

「うん!」

「まずはボールを止める練習をしよう」

「はい〜」

「まずはボールをしっかりと止めて、そうそう、

両方の足と、いろんな方向から止めるんだよ」

ジローは法王と同じでスポーツ万能なので、

まるでサッカー選手のようにボールを止めるのだった。

「さすが上手だぁ。次はキックだぞ」

「いいよ〜!」

「ボールのどこを足のどこで蹴るのか、

どのくらい蹴るのかを考えるんだよ〜。

でね、

その結果ボールはどう飛んで行ったかを確認するんだ」

「ふーん」

「インサイドキックからね。足の内側を使って、こう」

バス!(ジロー)

本当に上手だね〜。

ジローは天才だ。

「それではバナナシュートを伝授しよう!

ボールの横に軸足を踏み込み、

ボールの外側を思い切りひっかけるように蹴ってごらん」

「こう?」

ズドン!

ボールはバッジュー!と高回転で飛んでいき、

バナナのようにカーブしながら仮想ゴールの右側に入ったのだった。

「なんだ、かんたんでした!」

ジローはサッカーでも伝説的にすごいとわかって、

新春早々うれしかった。

サッカーを真剣にしていたら暑くなり、

ボディサーフィンでもしようと、

公園前のショアブレイクに飛び込んだ。

私はサーフボード遊びが好きなので、

冒頭の画像のようにキャッチサーフでパドルアウトしたのだった。

タローは、

スキムボードでボディサーフし、

ジローは、

ただひたすらボディサーフしていた。

小学校四年生。

まだまだかわいいなぁ。

【第二部】

これは年末の鎌倉。

ジャイアンとガラさんと、

忘年会を兼ねて鎌倉の夜を楽しんだ。

ジャイアンは、

小林トシさんと言って、

義理人情に厚く、

損得感情も裏表なく、

人助けをし、

約束は必ず守り、

家族を大切にする男の模範である。

あまりにも熱血漢すぎるので、

それを奄美の緑くんが茶化して

『ジャイアン』と言ったのが、

このニックネームの始まりだと記憶している。

だが、

本人はジャイアンと呼ばれるのが気に入らず、

たいていは私たちが言うだけになってしまった。

マンガのジャイアンとはドラえもん由来であり、

野球のジャイアンツではない。

弱いものいじめをしないことと、

歌がうまいことが違っている。

アーバン・ジャイアンには、

取り巻き舎弟の骨川スネ夫がいない代わりに、

芭蕉の蕉門十哲(しょうもんじってつ)のような子分たちがいる。

そしてジャイアンの師範がガラさんと、

新極真会の緑健児さんだ。

(それぞれ葉山あたりと、

奄美大島南部にいらっしゃる)

日本のサーフィン史によると、

ガラさんは加山雄三さん、

川井幹雄さんときっと同じ日にもサーフィンを楽しんでいた伝説人で、

この三人に共通するのは、

いまだご存命中であるということだ。

これによってサーフィンは、

長命への特効薬なのではないかと、

そんなことをひらめかてくれるほどお元気で、

しかも公平な視点をお持ちで、

なによりも品があって優しい。

これではまるで芭蕉の師匠の

北村季吟(きたむらきぎん:歌学方)のようなお方だ。

(*歌学方500石=江戸時代の学問をつかさどる職

:収入は現代の貨幣価値で8000万円とされている)

私は鎌倉でサーフィンをはじめたので、

ガラさんのお話はたくさん聞いてきたが、

昔から「やさしい大先輩」だった。

先日沖縄でご一緒したときに

サーフィンの歴史をお伺いすると、

「俺らがサーフィンを始めたときはね、

サーフボードなんてものは平均月収の倍とか三倍で、

遊び道具としては買えたものじゃなかったんだよ」

「そうだったんですね。

じゃあガラさんはどうやってボードを手に入れたのですか?」

「俺はさ、米軍基地で働いていたんだよ。

兵隊がサーフボードを持っていて、

波に乗れるところを教えてくれというからシチリに連れていって、

俺はタイミングを見て、

そいつらからボードを借りてやってたんだよ」

「当時はどこにサーフィンしに行っていたのですか?」

「シチリ(七里ヶ浜)か由比ヶ浜だな。

昔はさ、シチリの浜の上がね、

砂利の土手で、

誰かが買い取ってバス停にしたんじゃないかな。

誰でも車が停められたからさ、

今で言うゲンコツあたりで良くサーフしてたねぇ」

「へー、マサモ(正面)とか、峰(ミネ)じゃなかったんですね」

「俺たちはさ、横須賀から行くでしょ。

だから稲村を越えていくとあの辺りになっちゃうんだよ」

途中から才女の夏枝ちゃんが合流し、

SEEA感がたっぷりとなった。

下の画像も夏枝ちゃんが写っている。

(巻末リンクを参照ください)

「他に誰がサーフィンしていましたか?」

「ずっと誰も波乗りなんかしてなかったよ。

あ、いたな。パイロットの人が来るようになったな」

「へー。その人はガラさんを見たら驚かれたでしょうね」

「そうよ。俺はまだガキだったからさ、

大金持ちのせがれだと思われていたよ〜」

「そうなんですね」

「おうよ、当時の感覚ならばさ、

百万円近くするアメリカ製のサーフボードを持っていたからさ」

「そのボードはどうしたんですか?」

「兵隊さんがさ、帰国するときに置いていくんだよ。

いらないよと言うんだけど、邪魔みたいで置いていっちゃうんだよ」

「最高でしたね」

「そうなんだよ。だからサーフィンは高尚なものだったんだ。

けれど1970年代になってさ、

サーフボードが買える値段で出回ると、

輩みたいな下品なのがたくさん海に来てね、

波の取り合いでケンカするからさ、

俺はこんなの嫌だよ〜となっちゃったんだ」

「サーフィンが普及した弊害ですね」

「ローカルとか言って、地元が威張りだしたのもこの頃だな。

俺は嫌だよ。あんなのはさ。だってかっこ悪いよなおいトシ(ジャイアン)よ」

「本当です。

弱いものイジメしている奴見ると張り倒してやりたくなります」

「それじゃ奴らと一緒じゃねえか。

暴力はだめだよ。いつまでも終わらねえからね」

「本当ですね。でも冗談ですよ」

「当たり前じゃねえか。どっちにしても暴力はだめだよ」

そんな話を思いだしたので、

ここに共有することにしました。

多くの人が、

波に乗ることを楽しめるようになりますように。

【追記】

私が早寝なので、

17時から開始された忘年会は、

21時を回ってクラクラしてきたのだが、

ジャイアンにとっては、

まだこれからだと感じたみたいで、

「カラオケ行きませんか?」(ジャイアン)

「カラオケ?行かないよ」

「行きましょうよ」

「こいつ歌うめえんだよ」(ガラさん)

「そういうのではなく、

カラオケは苦手なんですよ」

「ナキさんは歌わないでいいですから行きましょうよ」

エキマエでそうこうしていたら、

仕事を納められた法王が東京から戻ってきた。

(ドラグラ会館は鎌倉にある)

「法王が行かれるのなら」

そんな逃げ口上を言うと、

なんと、

法王がカラオケに同行してくれることになった。

全てに万能の法王は、

やはり歌唱も達者で、

氷雨や奥飛騨慕情を演歌歌手のように完璧に唄い、

さらには大瀧詠一さんがラッツ&スターに向けて書いた

『Tシャツに口紅』でラヴィランスだったかな、

元女優さんがふたりもいるお店は一気に盛り上がった。

それに負けじとジャイアンは、

サザンオールスターズなどを歌いはじめるので、

こちらはドラえもんのエピソードのように

「やばい」と身構えるのだが、

こちらもプロ並みに上手で驚かさせられたのだった。

【巻末リンク:SEEAの奄美大島】

伝統文化を継承する奄美大島_SEEA_クリスタルクリア波のサーフィン_(1026文字)

【巻末リンク*2:年末の願いとは】

【サーフィン研究所&ドラグラ年末渾身号】歳末の願いとは?_”Study to be quiet”_(2269文字)

Happy Surfing and Happy Lifestyles!!