なぜだろう?
どうして、人は波に乗りに行くのか?
どうして、人は食べるのか、
またはどうして人は生きるのか。
俺にとって波乗りとは、
そういう、哲学的なものになりつつある。
うれしいときも悲しいときも波に乗りたくなる。
いい波に乗れたり、そうでなかったり。
小さい波、大きい波。
美しい波、荒れた波。
波乗りに行く前には、予感や期待こそするが、
結果を求めて波に乗りに行くわけではない。
極上のいい波が届いた日。
そのときこそ、
自分の体も極上でいなければならず、
食べもの、筋肉、バランス、そんなことを気にしている。
そんな毎日は、体と心には良いと思える。
小波の日はともかくとして、
沖に出るにも、かなり体力を使うものだ。
太陽を浴び、鳥と一緒に沖に浮かび、
海側から先ほどまで立っていた岸の風景を見るのは、
世離れしていて好きなところでもある。
滑り降りる感覚に魅せられているのか?
それもある。
どうやってもままならないボードの上に立ち上がり、
上達したりしなかったりすることを愉しむのか。
波に巻かれたときには、
回転するジェットコースターのような絶望感に楽しみを見いだすときもある。
数ある波の中から自分の気に入った波を選び出す歓び。
その波が自分の目の前に来たときの興奮。
少し前まで仕事のことを気にしていたのとは反極にある自分。
ひとりで楽しめる。
みんなでも楽しめる。
潮の時間。
風の強さ。
水温の冷たさ、温かさ。
そして潮の流れを読む自分。
そんなことをちらちら思いつつ、
波を待っていたら自分の待っていた波が来たようだ。
「来た」
逸る心を抑えて波の芯に近づいていく。
波との距離は。
漕ぎ出す位置は?
自問しながら最良の位置を導き出していく。
波の下に向けて漕いでいく。
滑り出してもさらに漕ぐ。
滑り出すボードの上にさっと立ち上がり、
レイルを自分の好きな角度でかたむける。
自分の意志がサーフボードに乗り移り、
そして波がそれに応える。
波を通じて、海と向きあっている。
足から伝わる感触と視界を頼りに次々へとめくれ上がる斜面を進んでいく。
少し前の自分ではなくなった。
細胞が新しくなるように、
すばらしい波に乗ると、
自分が新しくなったように感じるのだ。
沸々とするよろこび。
これを人にどうやって伝えようか。
この感覚の到来を待ち望んで、俺は生きていたのだと知った。
思った通りの滑走になったときは宇宙を感じる。
この自分と、
あの宇宙をつなぐのはこのサーフボードだけ。
何もない。
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