The Corner, Uluwatu, Bali 2018. July
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ちょうど12年ぶりにウルワツを訪れた。
初めてやってきたのは私が20歳の時だったから、
32年で3回目ということになる。
鎌倉の大先輩であり、
私の波乗りの歴史の黎明期にお世話になった方が先々週亡くなってしまった。
彼と、
とても仲の良かった友人にマデ・カシムがいる。
カシムはバリではというか、
世界のサーファーの間では伝説中の伝説サーファーで、
私はカシムが日本に来たときはその先輩に連れられて、
一緒に七里ヶ浜各地の食事をごちそうになっていた。
その彼が亡くなったと、
ここバリで聞き、これも何かの縁だと強く感じ、
カシムに連絡を取ろうとするが、
フェイスブックはもちろん、
インスタグラムにもマデ・カシムはいなかった。
ただ、かろうじてインスタグラムには登録名があるが、
長時間使われてはないようだった。
別人かもしれない。
ただ、こんな情報時代なのでウエブサーチすると、
ウルワツの崖の上に
『シングルフィン』という豪奢なレストラン&バーがあり、
そこのオーナーだという記載があったので、
連絡してみると、
私の英語は伝わらず、話にならなかった。
そこで、週末を休日とする高間教授にお願いして、
シングルフィンまで連れていってもらうことになった。
ちょうどウナクネ・リトリートをしていたので、
Jさんをスギさんが引率してという形で、
朝はウルワツの手前のバランガンに行き、
その後パダンパダンに行き、
それからウルワツに到着した。
やはり、ここも他の霊地の例に漏れず、
噂通りというか噂以上の開発となっていた。
それを形容するのなら、
まるでロスアンジェルスのマリブやサンディエゴのオーシャンビーチ、
またはハンティントンビーチのような観光名所となっていた。
とにかくシングルフィンに行って、
マデ・カシムに会いに来たのだと説明するが、
従業員たちはオーナーであるマデ・カシムの名前すら知らない。
そのくらいの大型繁盛店になっているようだった。
そこで、支配人を呼んでもらい、
彼に私はマデ・カシムの知り合いだと伝えると、
ひれ伏すかのようになりながら、
「ミスター・マデ・カシム師はここにはいない」
「ここから程なく行ったところのご自宅に蟄居されている」
そんなヨーダかオビ=ワン・ケノービのようなことになっていて、
連絡先を教えて欲しいと言うと、
「それはできないので伝言なら承る」というので、
私の名前と彼の名前、
そして何が起きたかを簡単に書いて、
教授の電話番号と一緒に置いてきた。
支配人はその間、
真剣な顔で直立して微動だにしなかったので、
これなら伝わるだろう。
どうやらあれから四半世紀が過ぎて、
マデ・カシムはここウルワツで神格化しているようでもあった。
会いたかった。
きっと会える。
さて、今回のスペシャル遠征メンバー一行は、
バランガンの高速レフト、
パダンパダンのWSLイベントのプレセレモニーを通過し、
ここまで1000段以上の階段や、
サルやビキニ、車列、真夏を通過してやってきた。
The Corner, Uluwatu, Bali
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超が付くほど疲労困憊のはずだが、この波を見て、
エネルギーが即チャージされた。
まるでどこかの健康飲料のCMのようだが、
サーファーにとって美しい波というのは、
そういう効能があるらしい。
ウルワツへの恩人である高間教授は、
「ここはコーナーと言いまして、ウルワツでは最も危険なエリアとされています」
「ほうほう」
「やったことはありますか?ナキさんならもちろんですよね」
「へいへい」
「ご存じのように干潮になりますと、ほとんど水深のないところでこの激列なる波がブレイクします」
「今日の干潮はたった23cmや」(スギさん)
「そうなってしまうと、私のような一般サーファーは、リーフによってずたずたに引き裂かれます。
「クタで張り替え用の皮膚が売っていると聞いたけど…」
「んなわけないやんか」(スギさん)
「昨日は、宿のワヤンがデンパサールまで行けば”命”を売っていると言っていました」
「まさかやん。冗談はやめとき」
「本当なんです。だからバリ人というかインドネシア人はあんな運転をして大丈夫なんです」
「血清みたいに各村にも命の備蓄があると言っていたけど」
「よくご存じで」
「Jくん、信じるのはやめとき、大きな冗談やからな」
「だからとにかく、ここならどうなってもなんとかなると教授は言っているんだね」
「そのように思われます」
「なんや、人ごとやんか」
「さらには、ナキさんのお知り合いのマデ・カシムさんのご加護があれば、
私までもこのコーナー波に乗れると目論んでいます」
「俺はラカ神のご加護とデューク・カナハモクの教えしか信じてはいないけどね」
「サバ手でお祈りするというあれですか?」
「さすが教授!よく知っているね」
「はい、けれど、ナキさんに進言をするのはあれですが、宗教法人には登録されていますか?」
「え、必要かな?」
「はい、大切なことだと思います」
「そうか、じゃ『タキルワ(またはタキャワ、ラカ方言ではタキロー)・ダンナァ(摂政の意)』に伝えておくね」
「それがいいと思います」
そんな真剣な会話の後、
私のスキッパーフィッシュに乗った教授。
Catch Surf Odysea® Skipper Fish 6’0″
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Catch Surf Odysea® Skipper Fish 6’6″
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そしてナッキー。
ちょうど2年というサーフィン歴で、
このウルワツのコーナー波に乗った女の子はあまりいないのではないだろうか。
崖上のワルン(売店、商店)では、そんな話題となっていた。
各自数本乗ってくると、
潮がみるみると下げてきて、
これはナッキーがプルアウト後にやってきたセット波。
悪魔のような波を避けるべく、
地獄のようなトゲギザリーフの上に立ち上がろうとするナッキー。
ひとかどのサーファーならこれがどれだけ浅いか、
どこまでの恐怖かがわかるだろう。
全員が上がってきたが、
それぞれの地獄を味わったようで、
あるものは腰、あるものは膝と足、
そしてあるものは背中と手から血を吹きだしていたが、
クタで新しい皮膚は必要なさそうだったので、
それぞれの箇所にライムを擦りこんでおいた。
「あんなすごい波だったのに、これで済んだのはやはりマデ・カシムさんのご加護でしょうか」
「教授の突っ込みすごかったです。あれを見て、やはりここは本当に命が買えるのだと思いました」(Jさん)
「信じられないほど浅くて、生きた心地はしなかったです」(ナッキー)
「ウナクネ広報部長はこれから波乗りされるんですね。
もうすごい浅いですよ。みるみると引いていっています。
ご存じでしょうが、オーバーヘッドの波の下は30cm深の地獄絵図です」
「あはは、普段からラカ王とウナクネ式を信奉しているから大丈夫だよ」
「では無傷で生還するとぼくたちに誓ってくれますか?」
「じゃあ、もし帰ってこなかったらパダンパダンに流されているので、
あそこのサル階段の下の浜まで来てくださいね」
「承知しました。けれど、帰ってきてくださいね」
32年前に初めてここを訪れたときは、
オフロードバイクの『引き受け人』に1万ルピアを渡し、
彼の背中にしがみつき、
その拷問のような山下りをしてやってきた場所だが、
上記したように開発されて、車で来られるようになり、
ホテルあり、プールあり、レストラン&バーがあって、
世界各国からの美女たちがおめかしして、
毎晩開催されるパーティ会場になってしまった。
この洞窟に降りるのも木と竹で作ったはしごをひとつひとつ、
命がけで降りたのが、
今は、コンクリート製のふたつの階段があり、
誰もがこの洞窟浜でそれぞれの時間を楽しんでいた。
けれど、波打ち際は何も変わっていなかった。
そして波も何も変わっていないようである。
私はしみじみとコーナーへと続くチャンネルを通り、
陽が沈み、真っ暗になるまで、
その水深などはほぼない上にやってくる波に乗った。
あまりの浅い海底なので、
そのリーフの形がそのまま波面に現れていた。
デコボコしているが、
ボードの速度が出始めると、あまり気にならなくなる。
この波に乗った鮮やかな心象風景があり、
それはここで書くか、
Blue誌か、はたまたNALU誌、サーフマガジン誌、
はたまたオーシャンズ誌、
またはトロちゃんとのマガジンハウス各誌なのかはわからないが、
近日中に書きたい。
20歳だった私は、
それから20年、
そして32年経ってここに再びやってきて、
大好きなキャッチサーフで当時と何も変わらないすばらしい夢波を得て、
約束通り無傷で陸に戻ってくることができた。
そんな忘れられない日となった。
(書ききれないほどいろいろあるので、当分続きます)
私が乗った干潮コーナー波。
こんなゲボゲボ・ガリガリの波であるが、
そのパーフェクションは満潮時以上で、
さらに言うと時代を、
いや次元を超越して現世に戻ってきたという感となった。
不思議な体験。
帰りの洞窟下をパドルしながら感じたのは、
波乗りを続けて来て良かったと、
体中の震えが止まらなかった。
Happy Surfing!!
Terima Kasih!!(ありがとう)
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