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コスモス・サーフボード『H-ダイナミック』CV_(3529文字)

ミニ・ボード系のコンパクト「ミニ・シモンズ」が、いよいよコスモス・サーフボードへ!
コスモス・サーフボードの屋台骨を支える歴史探究『サーフボード博物館シリーズ』は、
70年前のデザインを再現し、
筋金入りの好事家も一目置くサーフボード群だ。

サーフボード・デザイン・フリークならば、

ミニ系の最古参「ミニ・シモンズ」を知っていることだろう。

このミニ・シモンズが、

CVモデル(Cosmos Version)へ登録された。

より幅広いユーザーへのアピールを狙いつつ、

定評があったスピード感と操作性の相反する特性をそれぞれ進化させて、

私たちは近代サーフボードの父であるボブ・シモンズを偲ぶ。

Cosmos Surfboards

H-Dynamic

5’3″ x 21-1/16″ – 2-5/8″

.

このミニ・シモンズ(以下MS)は、

ボブ・シモンズが1950年代にデザインし、

歴史上では、

最古のミニボード・デザインとして知られている。

当時主流だったオリジナル・シモンズを真っ二つにぶったぎったデザイン。

オリジナル・シモンズは10フィートのサイズがあったので、

5フィート、

もう少し長いものもあるので、

折れてしまったものを再使用したのかもしれない。

ボブ・シモンズは1919年に生まれた。

日本ではアンパンマンの作者やなせたかしさん、

作家だとJDサリンジャー、

野球で言えばジャッキー・ロビンソンが生まれた年だ。

インドではガンジーの平和的運動があり、

カルピスが販売された年でもあったようだ。

ボブ・シモンズ。

彼の偉業を振り返ると、

商業的な成功もなかったのだが、

コスモス・サーフボードは彼を称え、

ありあまるほどの敬意を焼き付けながらリ・デザインさせていただいた。

ボブは、

兄のデューイと共に天才的なIQを誇ったという。

彼の経歴を見ると、

どうやら空気力学に魅せられたようで、

高校を中退し、

技術者や研究者の権威であり、

憧れのカリフォルニア工科大学(パサディナ)に入学し、

アルキメデスやニュートン、

*ベルヌーイなどの理論と公式を掘り下げていた。

*ダニエル・ベルヌーイ。

『流体力学(Hydrodynamica)(1738)』

の著者であり、

流線や渦線に沿っての関数である

「(空気や水の)流れが速くなると、

速くなった部分の圧力は下がる」

という定理(bernoulli’s principle)を述べて、

今日の流体力学の基礎を築いた。

さて、

目的の大学でボブは、

「飛行クラブ(Flying Club)」に入り、

翼を設計&制作していたとあった。

だが、

1941年に戦争が始まると、

大学を即座に中退し、

サーフィン主体の生活となったようだ。

ボブは、

ガレージドアの会社に勤めた。

1946年の始めには、

両親の家(日本で書くと実家)のガレージでサーフボードを作っていた。

ボブ・シモンズは、

この時代に最新鋭のサーフボードを制作する稀な存在だったのだ。

1940年代後半のサーフボードは、

全木製でかなり重いものだった。

シモンズは、

バルサ材の間にフォームを「はさみこみ」、

ボラン・クロスとポリエスター樹脂でラミネートした。

これによって、

10フィートボードを10kgと軽量化に成功した。

木製のデュークボードが50kg、

通常のボードですら30kgもあったことを考えると、

これはもはや革新と言えることだった。

このシモンズ・ボードによって、

ボードの持ち運びが容易となり、

のみならず操作性が上がった。

ボブは、

サーフボード素材のみならず

こんにちのデザインにも大きく寄与している。

アウトラインに曲線を導入したり、

ソフト・レイルを設計、

ボードのボトムを丸く(ベリー・ボトム)して摩擦を減らしつつ、

的確なコンケイブを施し、

中低速のピックアップ性能を実現させていた。

また、

ノーズとテイルを一方向に彫りこみ、

「反り」として「ロッカー」を誕生させつつ、

テイル付近に2つのフィンを装着し、

波へのグリップ感と制御能力を備えさせた。

これはシングル・フィンの信者たちまでも驚かせたという。

前述したように軽量化されたボードに乗ったサーファーは、

まるで飛んでいるような乗り味だったとあり、

口コミでそれが拡がって、

多くのサーファーがボブのガレージに集まったという。

ただ、

ボブはそれからすぐに世を去ってしまった。

わずか35歳(1954)だった。

「モダン・サーフボードの父」は、

一子相伝であったのと、

この後のクラークフォームのPU革命もあって、

受け継がれるどころか、

忘れ去られていった。

それから45年も経ち、

フィッシュのムーブメントというか、

フィッシュ・ブームがやってきた。

その際にミニサイズのサーフボード研究がなされた際、

このボブのミニ・シモンズに脚光が当たった。

海洋設計の研究をしていたマイク・イートンは、

プレーニング・ハルは、

幅の250%の長さというバランスが最も効率的なので、

ボブのミニは、

完全にそのものだったと発言していた。

ボード・デザイナーたちは、

ボブのミニを再確認し、

半世紀も前の革新デザインに膝をふるわせるほど感動したという。

そしてタイラー・ウォーレンは、

『バー・オブ・ソープ(石けん)』

つまりミニ・シモンズをリバイバルさせてその名をあげた。

タイラーがボブへと持つ敬意からか、

このモデルに『ミニ・シモンズ』とはあえて命名しなかったが、

「ボブに向けて深いリスペクトがあるリバイバルなんだ」

サン・ファン・キャピストラノの自宅で語ってくれた。

追記としては、

ボブはよくソルトクリークでサーフしていたようで、

ひとりでサーフしていたことをグレッグ・ノールが回想していた。

(1948年以降)

パロス・バーデスやマリブで、

ボブがこの短身=ミニに乗っていたと、

何人かの著にもあった。

このボードはそれほどまでに印象的だったのだろう。

ボブはサンディエゴのインペリアル・ビーチに引っ越した。

ボブのツインやミニシモンズ・デザインは、

どこでも熱狂的だったが、

サン・オノフレだけは受け入れられなかったという。

なぜならば当時、

サン・オノフレのサーファーたちはとても保守的だったからで、

彼らと同じようなボードを使い、

同じスタイルで乗らないと、

「すばらしい」とは認めない風潮だったとわかった。

さて、

コスモス・サーフボードは、

冒頭に書いたように

『美術館シリーズ』でも知られるサーフボード・メーカーだ。

しかも前田博士がすべての作業を担い、

完成まで手がけるひとりオーケストラであり、

マニアのなかでも最上位にあたる

「エンスー」なブランドなので、

まずはミニ・シモンズのフルコピーも考えた。

けれどまず一本目ということで、

前田博士がこれまで制作したミニ・ボードの系譜をたどり、

「ロールさせない」

「テイルを粘らせる」

「接地感を下げる」

「高い加速性能」などをテーマとし、

サーフボードの形状を知りつくした博士の近代デザインを基礎としつつ、

ミニ・シモンズを受け継いだ。

たとえば、

ベリーボトムやソフトレイルはオリジナルの流れで、

テイルキックやロッカーは設定を微調整しただけという。

フィン位置は操作性向上が主目的だが、

足との接着改善にも役立っている。

「コントロールしている実感が大切です(前田博士)」

繰り返すが、

前田博士は、

“サーフボードを知りつくしたエンスー職人”だ。

その博士の手によって、

偉大なるボブ・シモンズを継承することになった。

テイル・セクションにハードエッジを多用してレールを落とし、

シモンズ風の丸みを帯びたノーズ、

フォア・ミッドセクションのボトムは、

Vee基調で、

薄いシングル・コンケイブがまず展開し、

十分な深さのダブル・コンケイブとなり、

テイルセクションにVeeで、

水流はスピーディにリリースされる。

ノーズエリアのディッシュアウト・デッキと、

Sカーブのデッキ・ライン、

そして現代の主流ともなったソフトレイルというシモンズ・タッチはそのままに、

アウトラインは、

博士が日本の波に合わせて”ダウンサイズ”して少し細くなった。

これによって高速での動力性能を増しつつ、

中低速のピックアップ感覚を増している。

クリスチャン・ワックから引き継いだグラスオン・フィンは、

「デモ・ボード」に追加された。

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70年前の新型

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クラス最前線の水準

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反比例する歴史と資質

追記:

【ベルヌーイの原理】

安定した一定の流れの中で、

圧力の低い領域を空気が流れると速度が上がり、

その逆も同様である。

圧力と速度の間には直接的な関係がある。

翼形部が揚力を生成するには圧力の不均衡、

上部の平均空気圧が下部よりも低い必要がある。