海があって、波がある。
波に乗るのは、
人間だけではなく、
魚、イルカやアザラシ、
ペリカンなどが滑走、滑空していく。
波に乗る(飛ぶ)ペリカンを眺めていると、
彼、彼女らは何年そうしてきたか、
何万回波に羽ばたいたかはわからないが、
「波乗りとは藝術(芸術)である」
と深く感じてしまう。
乗るものと、
波とが相互に作用し合うことが芸術。
(誤解を恐れずに言えば、
テキサスから来た旅行者が、
レンタルボードのノーズを天に向けつつ、
泡波に押されているのは波乗りではなく、
それは波遊びといえよう)
波に乗る芸術というのは、
自然からの波と、
生きものの自覚的な意図が合致して、
ひとつの表現を指すものだ。
音楽もまた芸術であるように、
サーファーたちは、
さまざまなボード(楽器)を使って、
それぞれの表現を求め、今日も海に浮かぶ。
浮かべないときは、
想像力で行き、そして夢想波を滑走している。
海の意志か、
ただのきまぐれなのか、
波は毎回手を変え、品を変えて俺たちを誘(いざな)い、
そして美しく現れては、儚(はかな)く消えていく。
海は深淵かつ深遠で、
そしてどこまでも始源だ。
波が遠くからやってくる。
水平線のたわみ、ゆがみ、
そして持ちあがりの起伏で、
それが欲しているものかどうかを見極める。
やがて目の前に願い続けたうねりが現れるだろう。
そのようやく巡り会った波との合致をめざして、
漕いで漕いで、そしてさらに漕ぐ。
やがて、ボードが浮かび上がるように、
そして降下がはじまると、
地上のこと、
つまり世間や世俗のことは全て霧散する。
波の上に羽ばたくように上昇し、
そして切っ先からまた滑降する。
泡になったら進めるだけ進む。
波に巻かれるときもあるし、
巻かれないときもある。
ただ、波に乗っている瞬間や、
波に向き合っているあいだは、
街の喧噪も、日頃のもやもやも全てない。
何もない。
そこにあるのは自分自身と、
ふくらませた想像力だけ。
自信の意志が海とつながった瞬間。
それが波乗り。
これが藝術。
「波に乗れ 永遠の波に乗れ」
こうして自分に言えるのがうれしい。
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