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「なんと美しい…..」
源博雅(みなもとのひろまさ)は、うっとりとした声で言った。
博雅は、ボードを持ったまま、沖から目を離さない。
西うねりが届いていた。
岬の奧からやってきたその波は、
形と高さを変えないまま手前に崩れてきていた。
すらすらと規則的に白泡となる波を見て、
博雅は先ほどからこれは南のリンコンだ、
ジャスティン・アダムスこそが、
鰻捩革命(ウナギ・クネクネ・レボリューション)だ、
いやこれこそが唐土の妖魅(ようみ)の極みだと、
ぼそぼそと独語しているのである。
阿部清明(あべのせいめい)と博雅は、
トレッスルズ最南端の砂浜にいくつかある鉄製ベンチの横にいた。
隣にいるサーファーたちのひとりは、いつかの茶板の彼だった。
清明はベンチにシングルフィンをベンチに立てかけ、
博雅と同じ波に目をやっていた。
あるひとりのサーファーが波に乗った。
フルスピードからのレイルターンにノーズライド、
そして完璧なラウンドハウスカットバック。
ハイパーフォーマンスではなく、
クラシックでもないそのスタイルを見て、
博雅は、あの技術は元帥だとか、
いや総裁だ、鰻捩(ウナクネ)のと独語していた。
聴くともなく、聴かぬともなく、
清明の耳には博雅の声が届いているらしい。
橙色のボードはまだ舞っていて、
インサイドセクションに飛ぶように入ってきた。
クリスチャン・ワックだった。
清明の紅い唇には、あるかなしかの笑みが点っている。
博雅の口から出てくる溜め息、
讃歎の声、言葉、その抑揚や呼吸の全てが、
清明にとっては心地よいらしい。
ペリカンが南から飛んできた。
雲一つない朝のカリフォルニアで、
波が喨喨(りょうりょう)と鳴り響いているようであった。
「この波の上を、
おれの魂が飛ぶように滑ってゆくような心地がするよ」
博雅は言った。
「おれが知る全ての楽の音が、ここに鳴っている。
これこそがウナクネ演楽という気持ちだ…..」
岬の奧にやってきた次の波を見て、
「何と美しい….」
博雅はもう一度言った。
波から清明に視線をもどし、
「なあ、清明よ、そうは思わぬか」
博雅はしみじみとした溜め息をついた。
「何のことだ、博雅」
清明が博雅を見やった。
「この波がだーー」
言ってから博雅は頭(かぶり)を振り、
「いや、この海がだ。今日はいつもに増して、
この海がいよいよ美しく、胸に滲み込んでくるようでないか」
そう言った。
「なるほど、そういうことか」
「何がそういうことか、だ。
おまえは今日の波に心を動かされるということはないのかーー」
「あるさ。人は、呪(しゅ)によって心を動かされもするし、
心が動けばそこに呪が生ずるのだからな」
「なに!?」
「人は呪によってこの宇宙と関わっているのだ。
美もまた、人がこの宇宙と関わるための呪といっていい」
「また呪の話か」
「まあ、聴けよ博雅」
「聴くのはいいが、話をややこしくするなよ清明」
「ややこしくはせぬ」
「ならいい」
「博雅よ、美とは何だ」
「な、な…..」
「いや、言い方を変えよう。美とはどこにある」
「な、なんだと?」
「たとえば波だ。おまえは今、波が美しいと言ったが、
その美しさとはどこにあるんだ」
「な、波にではないのか」
「さて、そこだがな、博雅ーー」
清明はその紅い唇に、楽しそうな笑みを浮かべた。
「な、波ではないのか?」
「急ぐなよ、博雅。波は波でよいのだが、
しかしただ波は波であるだけのものだぞ」
「ーー」
「たとえばだ、博雅。この世からおまえもおれも、
全ての人、全ての清明が死に絶えてしまったとしたらどうだ」
「どう?」
「波を見るものも乗るものもいなくなってしまうということさ」
「ーー」
「人がこの世から死に絶えてしまっても、波は波だ。今朝と同様に、
あのように崩れることもあろう。
波は残るが、しかし、人と共にその波の美も消え去ってしまうのだーー」
「清明、やはりおまえは話をややこしくしている」
「してはおらん」
「している」
「まあ、そう言わずに聴けよ、博雅ーー」
清明が心もち身をのり出した。
「では逆に、波がなかったとしたらどうする?」
「どうするってーー」
「波もない、海もない、
星もないーーこの世にただ独りおまえだけがある。
他のものは始めからない」
「ーー」
するとまた、さきほどと同様に、
美というものはこの世から消え去ってしまうのだよ」
「そ、それはつまり、美というものがこの世に在るためには、
それを見る者と、見られるものが必要ということか」
「そういうことだ、博雅」
「む、むう」
「源博雅だけがいて、波が無いのでは美はない。
波だけがあって、源博雅がいないのでは、やはりそこには美がない。
さらには波に乗ることができる源博雅がいて、
波があって、はじめてそこに美というものが生ずるのだ」
「ーー」
「呪とは、人そのものと言っていい。生命そのものが、呪なのだ」
「う、うむ」
「生命と宇宙とは、呪によって結ばれているのだ」
「清明よ、不思議だな」
「どうした」
「今朝は、いつものように、おまえが呪の話をしても、
頭がこんがらがったりしてこない」
「ほう」
博雅は波を見て、
「何だか、これまで以上にしみじみとあの波や海と、
このおれが結ばれているような気がするよ」
そうつぶやいた。
「よかったではないか」
「うん」
小犬のように素直に、博雅はうなずいた。
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夢枕獏作
『陰陽師、太極の巻』より
「東国より上る人、鬼にあうこと」より抜粋後、
替え歌の手法で単語を入れ替えました。
私は文学の勉強をするときに、
こうして名文だと思うものを書き写すことをよくしています。
そして波乗りを学ぶときにグレイトサーファーの真似をするときがあります。
今年はタイラー・ウオーレン(ウナクネ流派影皇帝)と、
アレックス・ノスト(ウナクネ流派総帥)の混ぜたようなスタイルになりたい。
文章家はあまりにも多くの達人がいるので、
その人たちのかけらがやってきますように。
最近はクスミ(久住昌之)さん、みうらじゅんさん、東海林貞夫さん、
そしてここに書いた夢枕獏さんをたくさん読んでいます。
クスミさんの細々なダンドリくん的な考えに自分を重ねながら。
それでは、
まだまだ続くすてきなお正月をお過ごしください。
また明日ここで!
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