新品・中古サーフボード販売、カスタムオーダー、ウェットスーツ、サーフィン用品など。NAKISURFは、プロサーファー、フォトグラファー、サーフライターで知られるNAKIのコンセプトサーフショップです。

naki's blog

【特大号】私の波乗りの歴史_第20編_渡米、野茂さん、そしてアート・ブルーワーとラリー・ムーア_(5907文字)

昨日から吹き荒れた風があり、

そんなこんなで仕事に没頭しています。

Herb2003 boards

回想記を書いていて、

そんなことから昔のハードドライブをつなぐと、

出てくる出てくる写真の山。

column_Naki

こんなブログみたいな記事も連載していました。

これは湘南平塚、八重山諸島西表島、

そしてノースハワイの月であったようです。

20070604_1026

Cole’s Batfish 5’4″ x 20″ x 2-1/8″ Twin+stablizer

photo by @u_skee

その平塚は松風で、

天才写心家U-skeさんに撮ってもらったのが、

このバットフィッシュのフロントサイド・スラッシュ。

フルスーツの季節でありましたが、

U-skeさんに撮ってもらえることがうれしく、

トランクスでサーフした私。

とすると、

今も昔もあまり変わっていないことがわかる。(笑)

R0014221

Zパッドのお披露目パーティの写真も出てきた。

当時のロイ・ゴンザレス。

昔からオシャレな人です。

さて、そんな昔話続きで、

連載企画の第20回目に入ります。

今日は少し長いです。

最初から読まれたい方は第1回のこちらをご覧ください↓

私の波乗りの歴史_第1回_(2282文字)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

毎年カリフォルニアに行くようになり、

すっかりあちらの生活に焦がれていたボク。

そんなとき、

グリーンカードが取得できるチャンスとなったのです。

前回、19編はこちらです。

ベーコン&ほうれん草サラダ_フォードGT_銀座三越のメロンジュースがサンファンキャピストラノで?_私の波乗りの歴史第19編_湘南でカリフォルニアにかぶれる_(2506文字)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

苦手な書類仕事ばかりだったけど、

血液検査や健康診断後に虎ノ門の東京、米国大使館内で面接があり、

その後すぐに連絡がきて、

グリーンカードが発行されることが決まった。

ただ、その最終取得のためには、

1年以内に渡米して、

住所をアメリカ政府に報告し、

6か月から1年間後に郵送されてくるという、

「グリーンカードは住み始めないともらえない」

という念の入れようだった。

で、その出発日を秋の大安と決めた。

夢だったアメリカでの生活が日々迫ってきていた。

茅ヶ崎の家を引き払い、

友人たちと今生の別れのようなものを告げて、成田空港に向かった。

その年は、

ちょうどドジャースに野茂さんが入団することとなり、

各メディアを大きく賑わせていた。

文面を読むと、

野茂さんはNPB野球界の悪役で、

世界に通用すらしないはずなのにメジャーリーグに行くのは、

日本人の恥だとまでされていた。

野球好きのボクは、

野茂さんのピッチングを知っていたので、

必ず活躍できると信じていた少数派であった。

空港ゲートで聞いたのは、なんとその彼が同便だという。

そんな偶然がうれしく、

さらにはこれからやってくる生活に思いを馳せていると、

10時間のフライトをあっという間に終え、

ロスアンジェルス国際空港に降り立った。

1994年10月6日。

サーフボードとウエットスーツを持った私は、

空港からレンタカーで直接サンクレメンテに行き、

街の北の、

204(ツーオーフォー)というブレイクまで徒歩5分のデュープレックスを

月675ドル(当時の為替で54000円)で借り、

アメリカ住人としての日々が始めた。

(関係ないが、ジョンという人がこの家の大家オーナーだった)

ちなみに今このサイズの家をこの海沿いに借りるとすると、

最低でも2000ドル(23万円=115円計算)はかかり、

そう考えると、3倍以上、

為替相場を考えると、4倍以上家の値段が上がったことがわかる。

仕事を始めるにあたって、

まずは自分の得意分野であるサーフボードを日本に送ろうと、

あらかじめ目を付けていたコールとコンタクトを取り、

彼と代理店契約をしたく、

ビジネスライセンスを取得するため、

オレンジ群都であるサンタアナ市(サンクレメンテから車で40分)まで行き、

新聞に自社の掲載広告という証拠を持って弊社を設立した。

そしてそのビジネスに必要な人生初のマイコン、

つまりマイ・コンピュータを買おうと、

ラパズのモールにあった『コンプUSA』という大型ストアに行き、

「箱が商品画像のデザインでないものを買え」

そんな識者からの助言を受けて無地のボックスを購入した。

小さな商品情報が記載されたシールにあったのは、

『パワーマッキントッシュ6100』

03-021

03-021

PowerPC 601搭載の64bit、

60/66 MHzという性能で、当時は廉価版の高性能機だった。

これに「ことえり」という日本語フォントをフロッピーディスク15枚を使って、

インストールを開始したのだが、夕方始めたのに深夜になっても終わらなかった。

その後も、

日本語を使うだけでフリーズ(強制終了)する現象が頻繁にあり、

タイプするときは数秒に一回、

ショートカットでコマンド+Sを使って保存する癖が付いてしまった。

当時、

マックで日本語を使うのは、かなり大変なことだった。

28.8kモデムでインターネットも開通し、

輸出業を始めたのだが、

こんなボクがやっているのだから、

しかも世間という大海に投げ出されてすぐにスランプに陥った。

いわゆる開店休業というやつである。

ただ、日本からの貯金というか、

エアジョーダン全種類や書籍コレクションを売ってきたのと、

ちょうど未曾有の円高だったので、

質素に暮らせば何ヶ月かはもちそうだった。

でもどうやっても仕事がないのである。

naki-6_sm

そんなときは波乗りに行くと、

仕事設計が思うようにいかなくても、

一人前に波に乗れることで自分を取り戻すことができた。

自信というカテゴリーでは、波乗りに助けられていた毎日だった。

銀行に行っても知らない単語が多く出てきて、

「だいたいこんなことを言っているだろう」

そんなことだが、お金のことなので心配である。

もう少しきちんと話したいと考え、

英語の勉強だと、

ケーブルTVの格安パックであった「ベーシック」を契約し、

チャンネルを付けて『ザ・シンプソンズ』や、

日本でも英語の勉強教材に使っていたセサミストリートを見ていた。

そうこうしていたらメジャーリーグが開幕となった。

前年はストライキだったので、

メジャーリーグが開催されることの喜びに全米が包まれていた。

そしてそして、

野茂さんがメジャーリーグデビューすることになった。

こちらに住んでみてわかったのだが、

ロスアンジェルス・ドジャースは、

カリフォルニア・エンジェルスと共に地元の大人気球団だった。

NOMOは招待選手としてのキャンプから、

名門球団の先発投手の座を勝ち取ったということで、

地元はもちろん、全米で1大ニュースになっていた。

その先発日をLAタイムスという新聞(これも定期購読していた)で知り、

その時間にTVをつけると、

照れくさそうで、

カメラを嫌そうにしているノモさんの顔がアップでずっと映っていた。

この後、全米を賑わせた彼の活躍はみなさんの知るようなこととなり、

野茂さんはHideoNomoとなったのだった。

Hideo+Nomo+SI+cover

私にとって、

異国の地でノモさんの活躍にあれほどまで励まされたことはない。

海外で暮らすというのは、

おもしろく、そして辛い。

糸井重里さんではないが、「オモツライ」のであった。

なので、そのオモツライを(勝手に)共にしたノモさんが私の心の中を占めている。

もちろん今でもノモマニアで、

さらにはメジャーリーグも愛している。

じつは私の波乗りのボトムターンは、

野茂さんのワインドアップのトルネード投法を真似ていて、

『トルネード・ワインドアップターン』だとここに白状します。

201604_naki_SanO_1586

ちょうどこの頃に私もFUNAKIからNAKIと名前が変わっていった。

それは、

シェーン・ベッシェンとジョシュ・バクスターが「NAKI」と呼び、

その途端に私の名前をみんなが簡単に覚えてくれるようになった。

その秘密はシリブル(Syllable=音節)にあった。

アメリカ人の名前の多くは2つのシリブルから成り立っていて、

要は音がふたつのものばかり。

Mark

Shane

Jack

Sally

Lucy

というように2つ。

たまにジョナサンとかベンジャミンとあるのだが、

これらはジョニー、ベンジと2つのシリブルに省略されていく。

ということで、

私のFunakiがNAKIになったのは、

アメリカ人的な流れなのだろう。

最初は、

「泣いているみたいで嫌だな」そんなことを考えていたが、

アメリカ人にとって覚えやすく、

あまり聞かないということがあって、多くの人が使い始めていた。

で、今もNAKIなのであります。

さて、

アメリカ生活は前出したように山あり谷ありだが、

業務内容をサーフ用品輸出業から

サーフボードプロデュース

写真

文章

そうやって拡げてることで生計を立てた。

有名出版社に記事を書くのは反響があるのでうれしい業務だった。

うれしかったのは、

当時、超が付くほどの人気雑誌Fineに大野薫さんの後釜として、

『サザン・カリフォルニア・サーフストーリー』

という連載機会をいただき、これは84回も続いた。

月刊誌なので、ちょうど7年ということになる。

ブログなどなかった時代に

このサンクレメンテ生活のことをかなり多くの人に読んでいただけたと思う。

「熱く読んでいました!」

そんなファンの方にいまだにお会いする。

きっとこのブログもその連載の続きなのかもしれない。

fine

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

サーフボードプロデュースと同時にマーケティングとPRも担うようになった。

その一環として、

サーフ写真を撮り始めたら自分の師匠ジョージ・サラスに大師匠がいて、

それは巨匠神話人とされるアート・ブルーワーだった。

アートはサーファーマガジンの栄誉写真家で、

サーフ写真を撮るフォトグラファーのあいだでは、

彼のことを知らない人はいないほどで、

当時「ワガママで、絶対に(仕事としての写真を)撮れない」

とされていたジョエル・チューダーでさえも、

アートが「撮る」というと、

どこにだってやってきて、

ポーズを撮っていたほど尊敬されていた。

IMG_2658

ジョエル・チューダー

Photo by Art Brewer

これに対抗していたのが、新鋭SURFINGマガジン。

サーファーマガジンが

サム・ジョージを編集長とし、

ビジュアルをアート・ブルーワー系としていたことに対し、

トム・キャロルの実兄ニック・キャロル、

PTことピーター・タウンネンドを編集長に据え、

ビジュアル長は奇才伝説とされていた赤毛のフレーム(FLAME)こと、

ラリー・ムーアという布陣で対抗意識をメラメラと燃やし、

互いに内容で戦うように編集して出版していた。

当時サーファーマガジンはサンファン・キャピストラノにあり、

サーフィングはサンクレメンテのアストロデッキ社の2階にあった。

ボクからNAKIになりたての私がソルトクリークのグラブルズで撮っていたら、

そのSurfingマガジンのフレームことラリーが笑顔で私の元にやってきた。

「良いのが撮れたらここに電話してきなさい」

そういって、

SURFINGマガジンの写真入りのカラフルな名刺をいただいた。

そんなこともあって、

雑誌社に興味があったので、言われた通りにラリーに写真を見せに行くと、

やたらと絶賛してくれた。

Pelican_8x12

スライドと呼ばれていたポジフィルムのシートから数枚抜き出して、

「これらはRun(掲載するという意味)するかもしれない」

そう言ってボクをほのかに喜ばせた。

(実際には社交辞令だったと思っていたのだが)

そうこうしていたら1ヶ月後、ラリーが電話をくれた。

「グッドニュースがある。時間のあるときでいいので、オフィスに来なさい」

と言われたので、すぐに行くと、

次の号の締め切りが近いのか、

広いオフィス内は熱気を帯びていた。

ラリーのオフィスは一番奥の左側。

奧右側に編集長のガラス張りの個室。

「いつかはあそこに座りたい」

文系だったボクはそんな野望を持った。

左手には一段、高くなったオフィスがあり、

それがラリー・ムーアの場所であった。

今考えると、ビジュアル長というのは、

編集長よりもオフィス内では偉いということがわかる。

ちょうどロビー・クロフォード(現GoPro)が、

その長い手をぶらぶらさせながらラリーと熱く論じていて、

その内容は、

「プッシュ(増感)はいくつまで見開きで使えるか?」

というものだったので、興味深く聞いていた。

プッシュというのは写真用語だが、

フィルムにはISO(感度)が決められていて、

その感度を撮り手が変えて、

フィルムの現像処理を長くする(Push プッシュ=増感)、

短くする(Pull プル=減感)という出版系の話題だった。

私に気づいたラリーが、

ライトテーブルが置いてあった暗がりから出てきて、

「NAKI、良く来たね。あ、こちらはロビー・クロフォード、知ってるだろ。

それと、これが発売前のSURFINGの見本誌だ。おめでとう!」

そんなことをウインクしながら言われて、

ロビーの大きな手と、ラリーの硬い手と握手して、

一般編集階に一段ステップを降りると、

「NAKI」

後ろから声がした。

「これを持っていきなさい」

そう言って富士フイルム社のベルビア50(20本入)の箱を

両手で抱えきれないほど持たせてくれた。

「このフィルムは増感との愛称が良いので、

ISO80で測光して、

プッシュワンで増感してこの現像所に出しなさい」

そんなことをラリーから教わっていった。

(ラリーはもう故人となってしまったが、芸術的な作品をたくさん残し、

さらには職業意識の高く、立派なプロフェッショナルだったと今も思う)

亡くなる前のラリー・ムーアについては、

私の好きなロッキーショア2002−2003年のときにあるので、

巻末に付けておきますね。

あれから14年も経つのですね。

【naki’sコラム】vol.25 懐かしのロッキーショア2002-2003(桃源高波祝有天)

車に戻ってから、シートの上でその見本誌を開くと、

突然目次に私のペリカンショットが見開きで使用されていた。

その後も重用してくれて、

Photographer

そう印刷されている写真入りの名刺もいただき、

私はプロフェッショナルとして、

その後Surfer誌でも雇われることとなって、

これにはアートもとても喜んでくれた。

(そんなこともあって、NAKISURFのボード写真の多くは、

サーファーマガジン誌のスタジオで撮られているのです)

201508_Nation_Dream_Clusher

The Nation Dream Clusher 5’6″ at Surfer Magazine Studio

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第21編に続きます。