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特大号【サーフィン研究所】金狼ボンザー1971完成!!_(3015文字)

“The Bonzer”

ボンザー、1971年。

私が5歳かおよそ、

6歳になった頃にこのサーフボード・デザインが誕生していた。

Bonzer 1973

サーフィンを始めて、

そのボンザーを見ることになった。

先輩には「こんなの時代錯誤だよ」

と聞かされたけど、

未来の乗り物のようで、

その先輩はデザインにヤキモチを妬いているようにも映った。

ボンザーを見る度に動揺していた。

こんなものは乗れるのか、

もしかすると奇跡なのかとか。

スタイルが良すぎて心配になったのかもしれない。

ボンザー。

私にとって鮮明な記憶がある。

「1973年製さ」

そう言いながら総帥が見事に操り、

ウナギクネクネという言葉が沸いたと、

いつかのカラーズマガジンに書いたが、

このじつは、

「昇龍(しょうりゅう)」であり、

または「流星号」だと感得したのだった。

その流星ボンザーは、

新旧、

真性、贋作、まがいもの、

良品、美品、傑作、

及第、落第品とさまざまあるが、

瀧朗が本家品をハンドキャリーしてきた。

それを法王がサーファーズ岬で乗っていたり、

His Holiness The 38th Dalai Raca

of Dragon Glide Productions

.

伊豆白浜で乗っていたり、

その時は下田駅前に行き、

法王が注文したエビワンタン麺を

「味見していい?」

瀧朗がそう聞くやいなや、

3個しかない1つをパクリと食べてしまったり、

そんなことまで思い出した。

けれど、

このボンザーではない、

あの博物館のボンザー1971年製の電撃であり、

総帥の 「天上天下唯BONZER独尊(1973)」であり、

そしてクリスチャン・フレッチャー

(本人はこれは1970年だと言い、

またはダブル・バレルの見立て通り1972年製か?)

の電撃のことが蘇る。

これでもない、

あれでもない、

これはどうかという年月が過ぎていった。

キャッチサーフに乗っていれば、

そんなことを忘れるのだが、

タイラー印のボンザーを見るたび、

またはボンザー風のフィンを見るだけでグワと熱くなっていた。

あのボンザーのことを考えて、

睡れなくなる夜もあった。

持ち上げると、

ずっしりとした重さがあり、

経年変化でクロスが痩せてザラザラしていたり、

古いボランクロス特有の質感だったり、

紫外線によって加齢変色した樹脂の色が浮かぶ。

しまいには考えることが怖くなったほどだ。

サーフィン博物館で出会ってからというもの、

ニール・ヤングのように探しはじめた。

『孤独の旅路』

I’ve been a miner for a heart of gold

魂を探し続けている

It’s these expressions I never give

だがまだ見つけられない

That keep me searching for a heart of gold

それが私が魂を求め続ける何かとなっている

And I’m getting old

私は年老いてきた。

(魂をボンザーと代えるといいです)

マーケットにボンザーならば山ほどあった。

けれど、

持ち上げると、

腕から電撃が走るズババ系は、

前出した博物館のと、

フレッチャーの1970か、

1973年のものしかくらいしか行き会えなかった。

(ズババについては巻末リンクを)

ドラグラ界では、

影皇帝で知られるタイラー・ウォーレンに作ってもらったり、

または、

法王や瀧朗が所有する、

カリフォルニアからハンドキャリーしてきた本家現代版ですら、

ロゴにクラクラするだけで、

ルイヴィトンとかと同じような光のピカだか、

ビカだと思っていたら法王がこちらを見ていた。

法王はピカチュウ似であるなと思った瞬間、

その恋慕するボンザーのことに決着をつけた。

探さずに待とう。

やがてやってくるからと。

だが、

その時はどんどん失われていくというか、

やってこない気がしてきた。

まだ待つ手はある。

けれど、

うーんとやっていると、

前田博士のお顔がふわりと浮かんだ。

タイラー・ウォーレンやライアン・イングルも良いのだが、

オピニオイスト(opinionist)なので、

「こちらの方が良い」

などと解釈を入れてくれるのだが、

「そうではなく、あのビビビが欲しい」

要望には、

純粋に応えてはくれないだろう、

そんなカウンター・オファーを含んでいるのであった。

前田博士と話をすると、

この壮大な事にのってくれることになり、

まずは相応のブランクスが調達された。

まだ初春のころだったので、

8か月ほど前のことだったのだろうか。

このクラシックなブランクスをハンドシェイプで落として、

その博物館1971ボンザーの製作が始まった。

その原型作成へは、

綿密な調査と精査がなされ、

完全無欠のシェイプが終わった。

これから1973年に向けて、

コンケイブというか、

ダブルバレルは深くなるということまで突きとめた。

博士オリジナルのボンザーが背景に見える。

そしてグラッシング。

1970年代を職工員として、

サーフボード製作をしていたサジーに聞くと、

当時はボートクロスと、

それ用の樹脂(レジン)を使っていたということになり、

それは8オンスだったという証言から

そのクロス探しを前田博士はし、

当時のレジンも調達してきて、

グラスオン・フィン、

ワイド・ラップ、

厚めのホット・コート

そしてリーシュ・ロープ部が追加されていった。

ボランクロスの粗い目が、

そしてボート・レジンを吸った質感というか、

あのときのボードと同じ比重を追加していく。

(日本酒の自動販売機が藤沢にあった)

冷か温かを緑か赤で選び、1杯300円!)

ややあって鎌倉や藤沢にいて、

エキマエで獺祭焼酎などを飲んでいたとき、

「完成しました!」

そう博士からビビビと連絡があった。

やや急ぎつつ、

金沢八景経由で千葉に戻ると、

その逸品は完成していた。

その48年の時を経て、

金狼(きんろう)は蘇った。

完全なる結果に大満足なる博士。

自身のデザインではないが、

こうして歴史から卓越を採り入れようとする姿勢と、

そして、

この大変なる過程を笑顔で過ごしてくれた前田くんに喝采を送りたい。

1970年代のグラッシング。

温故知新であり、

“Discover new truths by studying the past through scrutiny of the old.”

という古い教えから新しいことを学ぶことである。

ボンザーグラス・オンフィンも、

当時の仕上げにこだわり、

さらにはグロス&ポリッシュなどは一考にもしなかった。

フィンの後ろ側を削るのは、

1971ボンザーがこうだったからで、

さらには私のポリシーである

「安全に」という基準に合わせたからだ。

美しく削ることができて、

博士にほめていただくという一幕もあった。

バランス、

シェイプ・フォルム、

それら全ての概念がつながり、

大満足の博士。

私もあの日のズババが再び訪れて、

しかもこれが自分のものであるという歓びに満ち満ちた。

私のサイズ

6’3″ x 20-7/8″ x 2-3/4″

これを2020NAKISURFカレンダー、

MATRIXで計ってみると↓

190.5cm(長) x 53cm(幅) x 7cm(厚)

という3サイズなのでした。

ああ、うれしい。

これからサーフ行くぞ。

波がない?

いや小さいとも聞こえてきた。

けれどこのサイズなら膝もあれば十分乗れるだろうから。

【巻末リンク:電撃が走ったボンザー】

【落語】赤いボンザー by 鰻楽_(3230文字)

【落語のおまけ】

【日本の伝統芸能シリーズ】落語『夢の中の酒』_(3838文字)

Happy Surfing!


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