新品・中古サーフボード販売、カスタムオーダー、ウェットスーツ、サーフィン用品など。NAKISURFは、プロサーファー、フォトグラファー、サーフライターで知られるNAKIのコンセプトサーフショップです。

naki's blog

3.8フィートの週末1-3既得権益とは/ 片岡鯖男〈ドラグラプロダクションズ製作〉_(2188文字)

3.8フィートの週末

片岡鯖男

.

1-3

既得権益とは

Tyler Warren 1973 Bonzer 6’4″

.

「サーフィングはスポーツではない。ライフ・スタイルなのだ」
いつかどこかで、
いや、いつどこでも聞こえてくることがくりかえす。
サーフボードでうねりをとらえ、すべり降りた経験を持ってしまったら、その魅力に完全に取りつかれるだろう。
そう、ぼくのように波をすべることを好きになって以後、
サーフィングはひとつの生きかた、ライフ・スタイルとなった。
うねりをとらえて、と書いたのは、泡になった波ではない、ということを書きたかったからで、サーフィング・スクール全盛のこんにちでは、泡になった波に乗ったものなどはいくらでもいる。
ぼくの言うのはそうではなく、無垢のうねりを見つけ、どこがピークするのかを見極め、そこではじめてサーフィングの門が開くのだ。
フィジカルでもそうだし、思想もそうだ。
だからこそサーフィングはライフ・スタイルなんだと思う。
ただ、日本にサーフィングが伝わって、半世紀を越えると、サーファーにもさまざまな種類が出現する。
ぼくたちのように「生きかた」というスタイルもあるし、
「ファッション」という人たちもいる。
先日、あるサーフィン雑誌の編集長と話していた。
「サーファーには押しつけてくるものたちが増えた」という話だった。
例えば、無言でサーフしないとならないとか、
土地のものが士農工商のような身分制度を自称し、それを容認するという問題が全国に広まっているという。
「前時代のサーフィン専門誌が便宜上広め、間違った形で定着したもの」
ということと、
「既得権益でしょう」
彼は悲しそうに、そしてさびしそうにそんなことを言っていた。
サーフィングをするものをサーファーと言うのだが、日本のサーファーの現実は、そんなことになっているという。
これは日本だけだとも聞いた。
既得権益とは、英語でヴェステッド・インタレスト(vested interest)と表記し、ある集団が経緯により維持する権益、または権利と、それに付随する利益のことである。
集団が利己的に活動すると、何らかの既得権益を保持するようになる。
既得権益を成立させている要因は、集団同士の寡占的な協力によって、その集団は日本各地に根を張ったからだろう。
日本のサーファーにとっては、サーフ・ブレイクの近くに誕生したものが一番偉い身分制度となっているらしい。
土地の者と他所のものは互恵状態になれるはずなのだが、先ほど書いた「昔のサーフィン専門誌が便宜上広めた」ことで、土地のものが一番偉くなってしまい、波を獲得するのに有利なこと、果ては暴力的な脅迫であったり、と多様である。
はて、サーフィングとは?
私はハワイのノースショアの混雑の中でサーフィングをしたことがある。
ハワイ全域に強烈なローカリズムが存在しているが、
それは「サーフィンができない=危険」ということを排除したり、
古来から伝わる「愉楽を共有する」というファクトにそぐわないものに意見するものだ。
通常の波の日では、土地の者でないものが入っていても、サーフィングという行為がしっかりとできるのなら、誰かの兄弟であり、友人であるという尊敬の認識から優しく接してくれる。
誰かがピークで、テイクオフの姿勢になると、地元のものであろうが、南極から来たものであろうと、誰もじゃまをしてこない。
そのくらい高いレベルでサーフィングをしているのがノースショアだ。
サーフィングの歴史を調べてみると、文明と接するまでのハワイは、厳格かつきびしいタブーがあり、それは男尊女卑だったり、禁止事項の多い生活が、島民たちに強いられていた。
さらには王家制なので、王家の人や酋長たちの遊びを島民がおなじようにするのは、宗教的なタブー、禁止事項だった。
しかしサーフィングだけは、等しく万人のものだったとある。
おなじ大波を、男も女も、酋長も平民も、まったく平等に楽しむことができた。
古代のハワイが、である。
とすると、波に乗るということは、全ての人に等しく、最高な遊びという特性が備わっているのだ。
ハワイアンは偉大なる海だと知るからこそ、海は人のものではないという感覚だったのかと、ぼくは思う。  
一部のものが、そこで生まれて育ったからと、既得権益を誇示しているのを見るのはショックだ。
このような既得権益をもって得られる波の獲得は、サーフィング世界の非合理的な資本分配であり、実力や正確な評価が報われないために歪みが発生している。
土地のものたちは、自分たちが海を護っている、守っているのだと言うが、堤防建設とか護岸のご時世である。
この自然を破壊する愚を止めるためには、多くの人の同意が必要なので、ここでは土地のものでない人たちも協力できるし、海岸の清掃はもちろんのこと、プラゴミ排除だって世界的な視野の元で協力している。
なのに、である。
そんな比重の歪みすら感じてしまう。
美しい波、ビーチ、そら、陽。
波は手つかずのままだから、あるいは保護によって、手つかずに近い状態にかろうじて守られているから美しい。
その美しさとの触れ合いこそがサーフィングで、人は波に乗ることを純粋に楽しむべきだ。
ぼくは悪しきローカリズムを反対する。

(2019.6.13)