上総一宮の逸波『ジェフリーズ』。
無名なので誰も知らない。
知っているのは、
このブログの敬虔な読者か、
ドラグラ・プロダクションズの仲間たちである。
この北側にはタキビシン・ピークがあり、
スネーク、
堤防の向こうはインポッシブルとなっていく。
ジェフリーズはライト波のことで、
消波ブロックの内側に入ってくるレフトは、
ジェフリーズとは異なる波質になる。
なので、
タキビ神が「タンテイ・レフト」と言いだしたら、
私を含めた数人がそう言いだし、
数年かけてそれは十数人に拡大した。
さらに書くと、
最近はジェフリーズのことをタンテイ・ライトと言いだし、
本家がどこかに追いやられてしまった。
これではまるで、
チェーンストアの王者マクドナルドの二の舞となっている。
(創業者のマクドナルド兄弟は、
1961年にレイ・クロックに経営権を委譲したが、
支払われたものは少額だった)
元祖にスパイスを効かせたものが本末転倒する。
本末転倒は〈ホンマツテントウ〉と書き、
ジローくんがその言葉へアプローチし、
すでに研究を終えているので、
この詳しくを知りたい方は巻末リンクを参照ください。
類型の細分化は、
〈際立たない〉という典型だろうか。
長距離運転中にそんなことを考えていた。
ナガシマスパーランド
草津SA(下り)。
ここで給油。
およそ2kmにおよぶ明石海峡大橋。
インターネット・ラジオでアーカイブMLBを聴きつつ、
およそ900kmほど走ると、
なんと、
金子亮太くんとまたまた偶然に会った。
また偶然と書いたのは、
今から13年も前に彼が世界一周していた。
そのときにエルサバドルのスンサルというピークで偶然会ったからだ
(巻末リンク*2を参照ください)
中米、
しかもあの当時のエルサルバドル(内戦が終わったばかり)で、
日本人サーファーが海の上で出会う確率はいかほどのものだろう。
しかも無名ブレイクだし、
さらに書くと、
それからどこに行ってもたいてい彼と会う。
(伊豆編は巻末リンク*3へ)
しかもここは彼のホームブレイクからずいぶんと離れていて、
同じ場所にいることはきっとあるだろうけど、
同時間というのはなかなかあり得ないと思う。
それから山椒波というか、
小粒でピリリと辛い波にパドルアウトすると、
なんと千葉公平さんがいらっしゃった。
彼こそが現代に蘇った宮本武蔵であり、
ドラグラ界では総長だという風格がある。
こちらも偶然である。
公平さんには、
1980年代のノースショアの首領だった。
マイケル・ホーをこき使い、
バックドアのピーク周りでは誰からも尊敬されていた。
さらに書くと、
NAKISURF発足時は、
中村竜さんと純城とで『フォーカラット』でお世話になった。
(巻末リンク*4を参照ください)
それが長い年月を経て、
こうして一緒にサーフセッションができた。
公平さんもお元気でいらして、
サーフィンもかっこよく、
ドラゴン・グライド風味だった。
(上画像は公平さんのスイッチスタンス)
私はただひたすら
「サーフィンを続けていて良かった」
そう感激してしまった。
サーフ後は、
サーフブレイク付近にあった道の駅に行き、
たっぷりの「安心食」をいただき、
さらには名湯だと言われる
〈たぬたぬ温泉〉に行き、
シングル(水温一桁台)と噂される水風呂に入り、
運転の疲れを近代的に取るのだった。
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【巻末リンク:ホンマツテントウの主題と傾向】
【サーフィン研究所&ドラゴン・グライド・プロダクションズ特大号】二郎くんのハッピーサーフィン日記『チューブをショウメイしました』_(3160文字)
【巻末リンク*2:亮太くんとエルサルバドルで会った旅】
【巻末リンク*3:伊豆でも会った亮太くん】
【巻末リンク*4:フォーカラット時代の公平さん】
Happy Surfing and Happy Summer!!
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