こんにちは、
長い一日が終わろうとしています。
こちらはサーフィンブームの波がやってきました。
マンガみたいに混んでいます。(笑)
それにしてもよくここまでの人が集まりましたね。
というのも、今日は、
ホビー・アルターの追悼セレモニーがドヒニーであったのです。
ホビーことホバート・アルターは、
サーフィング界では、
最も重要なことを成し遂げたひとり。
サーフィング博士である
サーファーズジャーナル誌のスティーブ・ペズマンが、
ホビーのことについてこう説明していた。
「ホビーは17歳(1950年)のとき、
ラグナビーチでバルサボードの販売を始め、
それが成功すると、
21歳のときに親から受けた遺産(8000ドル)で、
1954年にダナポイントにサーフボード工場を作った。
それまではサーファーたちは、
木製(バルサ、レッドウッド)のボードを自作するか、
各クラフトマン(シェイパーと呼んでいたのでしょうか)
個別に注文していたに過ぎなかったので、
この商業化は大成功を収めました。
1959年には、
クラークフォーム創始者のゴードン・クラークと手を組み、
現在も続くポリウレタンxポリ樹脂サーフボードの製作を始め、
その安定した生産ラインのビジネスは、
1960年代のサーフィンブームのサーフボード供給を支え、
さらにはその発火材となったのです。
さらに革新的で機能に優れた軽量ヨットのデザイン
『ホビーキャット』を発明して、
”サーフィングとボート遊び”
という二つの大きなマリンレジャーを支持するダナポイント市に大きく貢献しました」
そんなサーフィング界では礎のような人がいなくなってしまいました。
ダナポイントの銘海岸のひとつであるドヒニー。
それは緩やかな斜面が続き美しいブレイクを見せる。
沖にはヨットハーバーが拡がり、
それはまるでホビーのためにあるような海岸です。
亡くなった人を偲んでパドルアウトするというのは、
ハワイアンウオーターマン流の追悼方法。
この大事な日にドヒニーのライフガードタワーから写真を撮ることになりました。
SURFERマガジン誌とダナポイント市からの依頼でした。
サーファー誌のメインフォトグラファーであるJPは、
ジェットスキーに乗って水中から撮ります。
サーファー誌の仕事は、
どこに入るのもその許可が一瞬で取れる。
これはサーファーマガジンという歴史を大切にする文化を感じました。
こんなに多くの人がホビーにさよならを言った日。
ホビーキャットもありましたし、
ポリエスター製ボードもたくさんたくさんありました。
ALOHA!(さよなら)
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デイブ・ネイラー。
彼とランチの日でした。
英国人らしく、
しっかりとしたゲームプランを持ってのサンドイッチランチ。
これは英国人というより、デイブの性格かもしれません。
NATION/CANVAS工場に行き、
私と同様のレースカー。
ライアンもホビーの弟子でもあるので、
こうしてサーフボード作りは今も継承されています。
デイブの作業とその仕上げを見るのはいつも楽しい。
現代のゴードン・クラークだろうか。
サーフボードデザイナーのクリスチャン・ワック。
彼もまたホビーの自由意志を継承する人でありますね。
CANVAS自信の
『パーチェイス・ムービー』はもうご覧になりましたか?
これを見るとノーズライドがしたくなります。
自由で、想像力が豊かで、
スタイルたっぷり、本当にすばらしい。
The Purchase from Canvas Surfboards on Vimeo.
それではすてきな土曜日をお過ごしください。
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