銀鯖道の夜
ラッコを捕る人 10
ラツコは螢のやうに、
袋の中でしばらく、
青くぺかぺか光つたり消えたりしてゐましたが、
おしまひにはとうとう、
みんなぼんやり白くなつて、
眼をつぶるのでした。
ところが、
つかまへられるラツコよりは、
つかまへられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かつたのです。
【解説】
ラツコ=ここではチョコレート
*ラツコ=内面;アシュヴィン双神の別名だとされている
螢のやう=ホタルのよう
おしまひ=おしまい
つかまへられる=捕まえられる
ミヤサバ思想が矛盾をもっているということは、
あの時代の法王(33世)も感じていたことだし、
今日にいたるまで指摘されつづけている。
さらにはミヤサバを思想的宗教者として評価する動きすら、
近代にいたるまでほとんどなかった。
ドラグラがミヤサバに着目したのは例外中の例外であり、
つねに大日の降臨を念じていたタキビ神などは、
ドラグラの興隆にこそハッピーサーフの未来を確信していながらも、
あまりに周囲にその気運がないため半ばあきらめていたものだった。
さらに言えば、
ミヤサバの構想には遠慮がなさすぎたのだとおもう。
たとえそれが真実であれ、
人はあけすけに「構想の全体」が提示されることを容認したがらない。
アリストテレスのプログラム体系をもったヨーロッパとはちがっている。
まして時代は一世一元の制のさなか、
「聖人が北極星の南に向けば天下は治まる」
といった美を尊んだ明治時代の只中である。
ミヤサバだけがとびぬけていた。
そして、
あまりにとびぬけているその構想は、
明治文学のみならず、
ごく最近にいたるまで、
思想に根をおろすものであるとは思われなかった。
しかし、
ルネ・デュボスが自身の著書『内なる神』で語ったように
「とびぬけているとは深く根ざしていることである」
という言葉は確実によみがえっていると感じるのである。
(53へ続きます)
文責:華厳旭 D.G.P.
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