銀鯖道の夜
ジロバンニの切符33
キヤラバンの中がまるでざわざわしました。
みんなあの北の十字のときのやうにまつすぐに立つてお祈りをはじめました。
あつちにもこつちにも子供が瓜に飛びついたときのやうなよろこびの聲や、
永遠に感じられる音像がきこえました。
そしてだんだん棧橋は正面になり、
あの苹果のやうな青じろい銀の雲も、
ゆるやかにゆるやかに繞つてゐるのが見えました。
「タキビシン、タキビシン。」
明るくたのしくジロバンニの聲はひびき、
みんなはそのそらの遠くから、
つめたいそらの遠くから、
すきとほつた何とも云へずさわやかなシンセサイザーの聲をききました。
そしてたくさんのヒカリノシズクのなかをキヤラバンはだんだんゆるやかになり、
とうとう棧橋のちやうどま向ひに行つてすつかりとまりました。
「さあ、降りるんですよ。」
チャーはボンと、
ナツコはだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。
「ぢやさよなら。」
ナツコがふりかへつて二人に云ひました。
「さやなら。」
ジロバンニはまるで泣き出したいのをこらへて、
怒つたやうにぶつきら棒に云ひました。
ナツコとボンは、
も一度こつちをふりかへつてそれからあとはもうだまつて出て行つてしまひました。
キヤラバンの中は俄かにがらんとしてさびしくなり、
風がいつぱいに吹き込みました。
そして見てゐるとネコたちはつつましく列を組んで、
タキビパレスの前のなぎさにひざまづいてゐました。
そしてその見えない天の川の水をわたつて、
ひとりの神々しいタキビ神が手をのばしてこつちへ來るのを二人は見ました。
そのとき、
すうつと霧がはれかかりました。
奥へ行く街道らしい小さな電燈の一列についた通りがありました。
それはしばらく道に沿つて進んでゐました。
そして二人がそのあかしの前を通つて行くときは、
その小さな豆いろの火はちやうど挨拶でもするやうにぽかつと消え、
二人が過ぎて行くときまた點くのでした。
ふりかへつて見ると、
さつきの十字架はすつかり小さくなつてしまひ、
さつきのネコたちがその前の白い渚にまだひざまづいてゐるのか、
それともどこか方角もわからないその天上へ行つたのか、
ぼんやりして見分けられませんでした。
シンセサイザー=YAMAHA CS-80(上画像後方)
【解説】
このジロバンニとシギパネルラたちが織りなすジュブナイルは2つの顔を持っている。
一つは、
オスカー・ワイルドが提唱した芸術論由来の、
「芸術のための芸術(L’art pour l’art)」
という思想であり、
もうひとつは「総合芸術」の融合だ。
総合芸術にもさまざまがあり、
歴史もあるのだが、
たとえば浮世絵、
ギリシャ神話、
ルネサンス美術からの影響を受けた宇宙的な構図が文体に踊る。
これらスペクタクル(視覚的に強い印象を与える光景や情景)と、
否定性に関わるネコたちが混ざり合って昇華し、
冥界、
つまり黄泉の国(異国の船)へ旅立っていく。
これは俗化、
形式化していく世界とは別にタキビパレスがあり、
この渚こそが三途の川であり、
棧橋であり、
リアリティが溶けるのである。
バイバイGood-byeで天国(paraíso)に行くのか、
または三途の川で留まるのかがここで描かれている。
(87へ続きます)
文責:華厳旭 D.G.P.
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