銀鯖道の夜
ジロバンニの切符35
ジロバンニが云ひました。
「ぼく、
もう闇の中だつてこはくない、
きつとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く、
どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」
「ああきつと行くよ。」
シギパネルラは棧橋の向かうを指さして叫びました。
「ああ、
タキビパレスはなんてきれいだらう。
みんな集つてるねえ。
あすこがほんたうの天上なんだ。
あすこにゐるのはHOSONOさんだよ。」
ジロバンニもそつちを見ましたけれども、
そこはぼんやり白くけむつてゐるばかり、
どうしてもシギパネルラが云つたやうに思はれませんでした。
何とも云へずさびしい氣がして、
ぼんやりそつちを見てゐましたら、
向うの河岸に白い車が見えました。
「シギパネルラさん、
一緒に行かうねえ。」
ジロバンニが斯う云ひながらふりかへつて見ましたら、
そのいままでシギパネルラの坐つてゐた席に、
もうシギパネルラの形は見えずシートがひかつてゐました。
ジロバンニはまるで鐵砲彈のやうに立ちあがりました。
そして窓の外へからだを乘り出して、
力いつぱいはげしく胸をうつて叫び、
それからもういつぱい泣きだしました。
もうそこらが一ぺんにまつくらになつたやうに思ひました。
そのとき、
「おまへはいつたい何を泣いてゐるの。
ちよつとこつちをごらん。」
いままでたびたび聞えた、
あのやさしい聲が聞えました。
ジロバンニは、
涙をはらつてそつちをふり向きました。
さつきまでシギパネルラの坐つてゐた席に陽焼け顏の痩せた大人が、
やさしくわらつて「ノトモ」と書かれた一册の本をもつてゐました。
「おまへのともだちがどこかへ行つたのだらう。
あのひとはね、
ほんたうにこんや遠くへ行つたのだ。
きみはもうシギパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。
ぼくはシギパネルラさんといつしよにまつすぐに行かうと云つたんです。」
「ああ、さうだ。
けれどもいつしよに行けない。
だからやつぱりきみはさつき考へたやうに、
あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、
みんなと一しよに早くそこに行くがいい。
そこでばかりきみはほんたうにシギパネルラといつまでもいつしよに行けるのだ。」
「ああぼくはきつとさうします。
ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでせう。」
「ああわたくしもそれをもとめてゐる。
きみはその切符をしつかりもつておいで。
そして一しんに波乗りしなけあいけない。
みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。
けれどもほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。
そして勝負がつかないだらう。
けれども、
ね、
ちよつとこの本をごらん。
いいかい。
ノトモは心の辭典だよ。
この本はね、
カルチユアが書いてある。
いいかい、
そしてこの中に書いてあることはたいてい本當だ。
さがすと證據もぞくぞくと出てゐる。
けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、
ぼくたちはぼくたちのからだだつて考へだつて、
天の川だつてお大師さまだつて、
たださう感じてゐるだけなんだから、
そらごらん、
ぼくといつしよにすこしこころもちをしづかにしてごらん。
いいか。」
タキビシンは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。
するといきなりジロバンニは、
じぶんの考へといふものが、
青白く光る岸に天の川やみんないつしよにぽかつと光つて、
しいんとなくなつてぽかつとともつてまたなくなつて、
そしてその一つがぽかつとともるとあらゆる廣い世界ががらんとひらけ、
あらゆる歴史がそなはり、
すつと消えるともうがらんとしたただもうそれつきりになつてしまふのを見ました。
だんだんそれが早くなつて、
まもなくすつかりもとのとほりになりました。
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【解説】
ほんたうのさいはひ=本当の幸い
白い車=マツダ・スクラム
斯う云ひながらふりかへつて=こう言いながら振り返って
陽焼け顏の痩せた大人=タキビ神のこと
聲が聞えました=声が聞こえました
ノトモ=嵐山光三郎、安西水丸、糸井重里らによるカルチャー指南書のこと
辭典=辞典
證據=証拠
お大師さま=空海
シギパネルラは、
三途の川=桟橋付近から天界へと旅立ってしまった。
残されたジロバンニの心象風景が描かれた、
後半最大部分の章です。
(89へ続きます)
文責:華厳旭 D.G.P.
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